平穏とひずみと

映画鑑賞『海辺の小さな喫茶店』





「今日はとっても暑くなるようですので、お屋敷でごろごろいたしましょう」




 ラオインの愛しい伴侶は、厳かな顔でそう宣言してくれた。




 朝起きておはようの挨拶を済ませるやいなや、携帯端末なる薄い板で伏籠邸の詳細なお天気予定(予報でも予測でもなく予定である)を確認し、窓を小さく開けてうんざりとした顔をしていたルリ。

 そんな彼女に、今日はどうするか尋ねてみると「ごろごろしましょう」との返事が返ってきた、というわけだ。



 本格的な夏に入り、二人の『秘密基地』の計画はしばらく中断を余儀なくされていた。涼しくなった秋頃には再開予定だ。

 ……なぜなら、あの小さな小屋には、お屋敷と違って『冷房』なる冷たい風を送り込んでくれる素晴らしい存在がないのだから。

 ルリいわく、伏籠邸の気温や気候はなるべく穏やかな過ごしやすいものに保たれているようなのだが、それなりに夏は熱くて冬は寒い。伏籠家のものたちはわざわざこの鳥籠楽園に四季を作った。彼らにとって四季の移り変わりがあるのは、ごくごく当たり前のことだったのだろう。


 ――それはそれとして、夏の外出は暑い。


 生まれつき褐色肌のラオインはもう今さらであるが、ルリが日焼けで肌を痛めるのはやはりよろしくない。

 太陽の光を浴びないのも良くないのだろう、だが、ラオインはこの屋敷に来てから読んだ本の知識から『日焼けはやけどの一種である』と学んでしまった。以降、外出する時はルリが帽子や薄手の上着を着用しているか、そして日焼け止めは塗っているかを確認せずにいられなくなってしまったのだ。


 なので、ラオインも屋敷の中で過ごすこと自体には賛成である。


 しかし……ごろごろする、とは。

 ごろごろとは、一体何をするのだろうか。丸まったダンゴムシの真似でもしあう遊びだろうか。それとも捕らえられた間者のように、手首を足首を縛られた状態で床を転がったりするのだろうか。ここの床ならどこも清潔なので、どこを転がってもまったく問題なさそうだ。



「ルリ。ごろごろするとは、何をするんだ?」

「んー……そうですねぇ、今日は……映画鑑賞でもいたしましょう!」


 映画鑑賞。

 ごろごろする、というのは別に床をごろごろと転がりまわるわけではないようだ。




「実は、俺は映画とテレビ映像と動画の区別がついていないのだが……それは問題ないだろうか」

「えっと、それは…………問題ないと思いますよ、多分」

 書物などにもよく出てくる言葉なので、ぼんやりとどんなものかは分かるが、はっきりとした区別がわからない。映画は九十分から百二十分ぐらいの映像作品なのだろうが、テレビ映像は時間はまちまちだ。さらにそれに、動画なるものが加わるともうお手上げだった。

 ルリも、きちんと分類するのは難しいようだし、彼女の言う通り今まで通りで何も問題ないのだろう。多分。



 二人は、一階にあるシアタールームにやってきていた。

 そしてラオインは、なぜルリが映画を見ようと言ったのかを悟った。

 ……このシアタールームなる場所は、他の部屋よりもさらに涼しいのだ。


「ラオインは、飲み物どうしますか?」

 なるほどと頷いているラオインに、ルリがわくわくした様子で尋ねてくる。

「飲み物?」

「えぇ、映画を楽しく見るなら、飲食物は欠かせないらしいですし。これはいわば映画鑑賞時のお作法ではないかと、私は思っています」

 大きな青い瞳をきらきらさせて、彼女は言葉を続ける。

「こういうふうに、誰か異性と映画を見るデート風景ってよく書物に出てきたので、楽しみだったんです。そのシーンでは必ず主人公たちはポップコーンを買って、炭酸飲料を飲みながら食べて、映画を見ていたんです」

 ほんのりと頬を赤く染めて、昔読んだのであろう書物の一ページを思い出しながらうっとりと彼女はつぶやいていた。


「……そうか、なら、俺は飲み物は炭酸飲料にしてみよう」

 精一杯優しく微笑みかけながらそう言うと、彼女はぱぁっと花が咲くような笑顔になる。

 そして、嬉しさのあまりということなのか、くるくるとその場で回り始めた。纏っている薄い水色のドレスとその下の白いペチコートの裾がふんわりと広がって、まるで本当の花のようだった。


「私も、私も炭酸飲料にします! メロンソーダと迷うところですが、やはりここは、コーラ一択です!」

「では俺もコーラで」


 それを聞いて、お揃いですね。と微笑む彼女は本当に……可愛らしい。





 ルリが適当に選んできた映画は『海辺の小さな喫茶店』という題名のもの。


 シアタールームに保管されていた箱から引っ張り出した文庫本よりも大きめのプラスチックケースを開けると、掌サイズよりも二周りほど小さいぐらいの水晶板のようなものが入っている。

 ルリがそれを映像機器にセットしている間に、ラオインはケースの裏を眺めてみる。そこには、どこかの港町のような風景写真と、この映画のあらすじのようなものが書かれていた。


 主人公夫妻は、脱サラして過疎の進む港町で喫茶店を開業する。その店に観光なり仕事なりでやってきた客や、地元に住む人々との温かな交流と――


 なるほど、と頷く。

 血湧き肉躍る冒険や、流血ありの戦闘、その果てにある莫大な宝物だとかそういった要素はないようだ。


 ラオインはちら、と傍らの愛しい少女を見る。

 彼女には冒険はまだしも、戦闘は……作り物のそれとしても、あまり見せたいものではなかった。




「始まりますよ!」

「あぁ」


 席のすぐ傍にあるテーブルは、モルガシュヴェリエが持ってきてくれた炭酸飲料が二つ、しゅわしゅわと音を立てている。そして、白い山のように盛られたポップコーン。

 それに加えて、調理したてで湯気を立てている揚げ芋。ポテトチップスと、スティック状のポテトと、くし型に切られたポテトと三種類。しかも……フライドチキンという、唐揚げともまた別のものらしい骨付き鶏肉を揚げたものまである。


 ここまでくれば、映画鑑賞という概念を知らないラオインにもわかる。モルガシュヴェリエは完璧以上に完璧な仕事をしたのだ、と。





『いらっしゃい』

『いらっしゃいませ、ようこそ』

『こんにちは。……今日も、来ちゃいました』


 ふかふかの椅子に沈むようにして座りながら、ラオインはコーラを飲む。

 初めて炭酸を飲んだ時は、まるで口の中を無数の剣で刺されているようだとも思ったのだが、慣れてくればこれも心地よいものだ。それになにより、無数の剣で刺されたらそんな痛みでは済まないだろう――無数の矢で刺されて、あれだけ痛い思いをしたのだから。



 物語は、高校なる教育施設に毎日通うことが苦痛になったと、少女が語っている場面だった。

『勉強がつまらないとかじゃないんです、いじめにあっているわけでもなくて、でもなんとなく』

 カウンター席でしょんぼりと肩を落としながら、黒髪をショートボブにした少女はぽつぽつと主人公夫妻に語る。



『なんか、生きるのが妙にしんどくなるときって、ないですか。なんでいま自分はここにいるんだろうって、そういう』



 ……そんな台詞を聞きながら、そっと隣のルリを見る。

 彼女は、つまみあげたポップコーンを口に放り込むところだった。それを確認して、ラオインは思わず心のなかで安堵のため息をつく。


 スクリーンの中で苦しさに涙をこぼす少女と、隣にいる少女の姿が、妙に重なって見えてしまったのだ。





 けれど。

 もう、ルリにそんな思いはさせない。

 このラオイン・サイード・ホークショウが、彼女の隣にいる限りは――



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