残されたひとつ

静かで、平和で、孤独な





 今日もまた、伏籠ふせご邸に静かな朝が来た。






 身支度を整えた伏籠ルリは一人、自分の部屋がある三階から二階にゆっくりと降りてくる。昇降機エレベーターは使わず、階段を使うのが常だった。




 廊下にある扉から、バルコニーへと出る。

 ここが、ルリのステージだった。

 円形に張り出した手すりを掴んで、彼女は深呼吸をして自分の中の空気を入れ替える。


 目の前に広がるのは、伏籠家の広大な庭園。庭園といっても、何もかも完全に整えたというよりは、自然そのままの景色を生かしたつくり。

 邸宅のすぐそばには薔薇園や温室。なだらかな丘があり、曲がりくねった道があり、その先には橋の架かった湖。そして、ところどころに泉や小川。少し向こうには牧場もあって、そこでは牛や豚、鶏や馬や羊などが飼育されている。



 冬がようやく終わりつつあるこの時期。太陽はまぶしいものの、まだ朝ということもあって風はやや冷たさがある。

 伏籠邸にも四季がある。夏は暑くなるし、冬は寒くて時に雪も降る。だが、一年を通してそれほど寒暖差は激しくはないし、湿度もひどく不快にはならない。それは、いつも、ずっと、変わらない。突然の猛暑や豪雪などはない。

 ……住人が不便や不快を覚えないように、常に快適に過ごせるようにときちんと管理されているからだ。




 聞こえてくるのは、風の音や小川のせせらぎ。それに、小鳥たちの歌声。いつもこの時間になると、彼らは大合唱を始めるのだ。


 そして、ルリもその合唱団に混ぜてもらって歌う。ここ二年ほどの習慣だ。




「おはよう、皆。今日も元気そうでなにより」

 ルリの挨拶に、小鳥たちも慣れたもので逃げる気配などはない。むしろ彼女のすぐ傍の手すりに乗って、歌を待っているような気配だ。



 すうっ、と息を吸い込み、そして――小鳥たちの歌に併せて、歌い始める。



 今日の歌は、恋の歌。

 もうすぐやってくる春は、鳥たちの求愛の季節。

 あちこちで恋をさえずる歌が聞こえてくるようになるのだ。



 ふわりと、強く風が吹いた。

 長いまっすぐな黒髪がなびく。スカートの裾がふくらみはためいて、ペチコートの繊細な白レースが揺れる。


 腕を大きく広げて、ルリは風を迎え入れるかのように高らかに歌いあげる。

 ときに楽しく、優しく、ときに切なく。


 観客がいれば拍手でも貰えるのだろう。

 けれどここには小鳥しかいない。

 彼女の歌を聞くものは、他に誰もいない。



 この世界のどこにも、いない。






 やがて歌が終わり、鳥たちがそれぞれに飛び去っていくのを、ルリはぼんやりと見送る。

 今日もまた――静かな一日が始まった。


 この鳥籠楽園のたった一人の住人、伏籠ルリは廊下をとぼとぼと歩く。


 恐ろしいほどにきれいにに保たれた廊下。

 床にはチリひとつ落ちていないし、硝子窓もいつもぴかぴか。かかっているカーテンがほつれていたこともない。

 人形の召使いたちが働いてくれているおかげだ。


 おかげで、ルリは掃除も洗濯も料理も、何一つ労働をしなくていい。

 ……逆に言えば、何もすることがない。



 伏籠ルリは、この快適なお屋敷でただ存在していればいいのだ。

 ひとりぼっちで、いつまでも。





 ルリがすべきことは、なにもない。

 まだ幼い頃は、家庭教師の人形がつけられて、勉強時間が設けられていたのだが、最近はそれすらもない。どうやら『義務教育』というものを終えたらしい。

 


 やることが特に見つからない時は、図書室で本を読むことにしていた。


 伏籠邸には、かつての時代に書かれた古今東西の書物が保管されている。

 データではなく紙として残されているものだけでも、その量はあまりに膨大だ。それは、伏籠ルリの人生が何回あっても読みきれるものではないだろう。



 背表紙に書かれた文字はさまざま。

 けれど――かつての人間の偉大なわざは、言語の分断という壁さえもとうに乗り越えていた。

 高き塔、という意味の名を持つナノマシン。それを持つものは、どんな言語も問題なく読み書きできるようになるという。

 どういう仕組みかはわからない。おそらくは、この屋敷のマザーコンピューターに匹敵するような、叡智の結晶。ルリの手で再現しようとすれば、一生分の時間ぐらいは軽く暇を潰せるはずだ。……やろうとは思わない。そこらに設置されている端末の構造だって、まるでわからなくても使うことはできる。それで充分だ。



 無作為に、いろんな本を手に取る。

 霧の都に住まう名探偵の推理小説、聖人の首を舞の対価として求めた姫君の話、硝子の靴や毒林檎が登場するような童話がまとめられたもの、迷宮に住まう牛のような姿の人食い怪物を退治しに赴く英雄たちが紡いだ神話……。



 膨大な書物だけが、今やルリのなぐさめだった。



 誰かが、このお屋敷に住んでいればいいのに。

 ルリはページをめくってから、ぼんやりと隣の椅子を見る。


 あぁ。ここに誰かが座っていて――今読んだばかりの本の感想や意見を言い合えたら、どんなにいいだろうか。



 ぱらり。



 けれど、そんな『誰か』などいない。

 ルリがページをめくる音だけが、静かな邸内に響くだけ。




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