「おはようございます」
……温かい。
伏籠ルリは、心地いいぬくもりに包まれていた。
確かに、もう季節は初夏と言っていいこの時期だけど、こんなにぽかぽかしていただろうか。いつもベッドの中は、冷え切っていて、自分の足先だって氷のようだった。なのに今は、足には温かいなにかが絡まるようにくっついていて。それに、なんだかちょっと重たくて、わずかな身じろぎさえもできない。
……でも、温かい。気持ちいい。
心がほんのりとしてきて、あぁ、幸せなんだ。
幸せといえば、私はラオインのお嫁さんになって――
あ。
伏籠ルリは、ぱっと眼を開いた。
召使い人形の手でカーテンはすでに開けられており、大きな窓から差し込むのは朝の光。
「あ……」
耳を澄ませば、ちゅんちゅんちゅちゅん、という小鳥たちの大合唱。
いつもなら、あの合唱に混ぜてもらっていたのだが――ルリは今日、遅刻してしまったようだ。
それというのも――
「ラオイン」
眠っている表情すらも生真面目そうな彼の髪を、ルリは寝そべったまま軽く撫でる。
こんな様子ではあるが、安心して熟睡しているらしい。
ルリはそっと、彼の耳や頬に触れる。
温かい。
眠っている間、ずっとルリを包んでくれていた温もり。
「ラオイン、もう朝です。早く起きて朝ご飯にいたしましょうよ」
「ん…………。あぁ、そうか、朝……なのか」
薄くまぶたを開けて、金色の瞳で油断なく周囲を見ていた。
「人形の召使い達はいないのか」
「カーテンを開けに来たようではありますが、今は室内にいないようですね」
「そうか」
つぶやくと、ラオインはルリを抱きかかえたまま半身を起こした。
そして、ルリの黒髪をいかにも愛おしげに撫でながら――
「おはよう、ルリ」
「おはようございます、ラオイン」
ごく自然に、二人でお互いの頬にキスをする。
彼の少しかさついた唇の感触が、ほっぺたにふにっと触れるのは、胸にじんわりと優しくて甘いものが広がっていくようで嬉しくなってしまう。
それに、おはようという言葉。
『おやすみ』というのが素敵な別れの挨拶なら、おはようは嬉しい再会の挨拶だ。
幸せな言葉。
おはようを言い合える相手がいる、幸せ。
温かいお布団からようやく出てきて、朝食前に身支度を整える。
ベッドで朝食を食べるというのも憧れないこともないが、怠惰なことはほんのたまに適度に行うから楽しさと背徳感があるのだ。
とはいえ、以前本で読んだ、旦那様が奥様に朝の紅茶を運んできてくれるという習慣はやってみて欲しい。ラオインが紅茶を入れてくれるならどんな味だろうか。なんとなく、香りはミントのように爽やかだけど、飲んでみると口の中に甘さが一気に広がっていく、とかそういう気がする。
今朝も、ラオインの服はルリが選んだ。
シャツは真っ白ではなくて、ごくごく淡い水色。ネクタイは無し。薄手でさらさらした春夏向きの紺生地でできたウエストコートと揃いのスラックス。最近は温かくなってきたのだし、こんなところにお客様もなにも来るわけがないので、ジャケットも不要だろう。
大きなついたての向こうでラオインが着替えている間、ルリも自分の服を選び出す。
ちょっとの間だけ考え込んで、手に取ったのはラピスラズリのような深い蒼色をしたドレスだ。
改まった席で着るようなものではなく、コットン製の軽くて楽な部屋着。
昨日は引っ越し作業をしたばかりなので、今日はラオインと邸内でゆっくり過ごす予定なのだ。このぐらいでちょうど良い。
彼を待たせても悪いので、急いで夜着を脱ぎ捨てて、蒼のドレスに着替えて鏡に向かい合う。
丸い襟ぐりには薄い青を何色も使ってで繊細な蔓草模様の刺繍。
ピンタックと飾りの金ボタンが施された、ややゆったりした身頃。
ウエストはぐっと濃い紺色のやわらかなサッシュが巻かれ、邪魔にならないように横で大きなリボン結びにしてある。
ゆるやかに広がる膝下丈のスカートには、繊細に編まれた純白のトーションレースが縫い付けられていて、清楚さとかわいらしさを演出。
そして袖。腕が動かしやすいようにか、袖ぐりにはタックがたくさん入っていて、すこし膨らみ、そして絞られた袖。カフスはリボン飾りあるが、大きすぎないので邪魔には鳴らない程度だ。
これで、完璧である。
完璧に『大好きな人とおうちでリラックスしつつ清楚さ可愛さもアピールしたいとき』の服装が出来ているに違いない。
ルリは心の中でガッツポーズをしつつ、急いで髪を梳かして整えた。
今日のところは、複雑に結ったり編んだりするよりはカチューシャで留めるぐらいでいいだろう。
仕上げに、かなり昔にアメジスティーニャに作り方を教わった、色つきの蜜蝋リップクリームを唇に薄く塗る。あくまで食事前なのでそんなにつける必要はない。
「……これで大丈夫、かしら」
鏡でいろんな方向を確認し、どうにか及第点ということにする。
「ラオイン、お待たせしてごめんなさい。こちらも身支度がおわりました」
部屋を仕切っている大きなついたてを、とんとん、とノックすると、彼が顔をのぞかせた。
――やっぱりラオインは格好良いです。
さっきまでの寝起きで、髪が乱れているラオインも素敵だったが、こうしてちゃんとアイロンのきいたシャツを着て、長くなった後ろ髪を纏めている彼はやはり男前だ。
「……ルリは」
「どうしました?」
「ルリは今日も愛らしいので、嬉しい」
ラオインがやや照れた様子でそんなことをいうものだから、ルリだって頬が真っ赤になってしまう。
なんだろう。
なんか、ずるい。
不意打ちで先制攻撃を喰らってしまった状態だ。
ルリも真っ赤な顔をで彼を見上げて、おずおずと反撃開始する。
「……ラオインも、その……格好良いです。今日も格好良いです」
「……そうなのか?」
彼は、困惑した表情をしていた。わずかに首を傾げ、眉を下げて、悲しそうな瞳で。
もしかしなくてもこの人は、こういうふうに人に何か褒められるということにも、慣れていないのだろう。
……。
「何度だって言います、ラオインは格好良いです。とっても格好良い旦那様で、私だけの王子様です! 格好良いです!」
「ルリ、あの」
「そのシャツきっちり閉じた襟からみえるしっかりした首も、ちょっとだけまくってある袖から見えるたくましい腕も、もちろん素敵です。手だってこんなに大きくて指が長いのに、いつも優しく私を撫でてくれて――」
「ル、ルリ、そろそろ……」
「と・に・か・く!! ラオインは素敵で格好良いんです! そんなラオインを独り占めして、おはようって朝一番に言い合えることが幸せです!!」
そう叫びながらぎゅっと抱きつくと、ラオインはいつもと同じように――優しく髪を撫でてくれた。
「…………あぁ、私もだよ」
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