惑い迷いて
ベッドに腰掛けたラオインはぼんやりと、己の手のひらを見つめる。
この屋敷の『意思』であるマザーコンピューターに、ルリと夫婦になるように要請された彼は、どうにか部屋に戻ってきた。
あの女神のような見た目は『よく考えてください』と言っていた。だが、ラオインの頭の中はぐるぐるといろんなことが渦巻いて、考えるどころではない。
……夫婦になる。
つまりは結婚すると言うことだ。
安全で快適な、この屋敷に住むために、この家の令嬢と結婚する。
ラオインも貴族の家に生まれた身。
誰かが何かの利益を得るための結婚――すなわち政略結婚はいくらでも見てきている。その中にはお互い愛情のある結婚も、幸せなものもある。だが、大多数は『そうではない』ものだった。
『ルリが結婚可能年齢である十八歳の誕生日を迎えたら、正式に夫婦になってください。それまでは一応、婚約という形です。……なにせこの子はまだ幼いので』
ラオインの世界では結婚可能年齢は特に定められていなかったが、この世界では十八歳からと定められていたらしい。
十八歳。
その頃には、あの令嬢もさぞ美しいレディになっていることだろう。こんな世界でもなければ、求婚者が申し込みための列を作るに違いない。
そんなルリ嬢を……自分が。
……いや、返り血に塗れて生きてきたような、ラオイン・サイード・ホークショウなどが、無垢なルリ嬢を娶って良いものか。
己の利益を叫ぶ声と、ほんの僅かな良心の痛みと、ある程度存在しているこの屋敷への責任感、そんなものがごちゃちゃに散らばってぐるぐるぐるぐると回って、ぐちゃぐちゃしている――と、そのときだ。
どこか遠慮がちで控えめな、扉を敲く音が響く。
料理人のモルガシュヴェリエだろうか。いや、だがまだ昼食には少し早い。
なら、庭師のガーネディゼットが花を届けに来たのか。
それとも、メイドのアクアシェリナが。
「あの……ラオイン……入ってもよろしいでしょうか?」
扉を開けて顔を覗かせたのは……当のルリだった。
大きな青い瞳を落ち着かなくきょろきょろさせたが、それでもどうにか必死にこちらを見つめてきている。
「あ、あぁ」
本当ならば彼女の入室を断るべきだったのだろう。
だがラオインは、彼女の瞳に見つめられた瞬間になぜか断る気が失せてしまっていた。
「ここに座らせてくださいね」
てっきり椅子を持ってくると思っていたのだが、彼女はラオインの隣に――つまりベッドに、ぽすんと無防備に腰掛けた。
近い。
ルリの、長い黒髪がラオインの腕に触れそうなほどに、近い位置。
今日の彼女は、花のつぼみを思わせる濃いピンク色のドレス姿。
随所にフリルをあしらった愛らしいデザインで、可憐な彼女によく似合っている。
そして、何か香り袋でも身に着けているのか、ふわりとこれまたみずみずしい花を思わせる心地良い芳香。
これだけ魅力的な少女なのだ。
きっと、大人になればもっと人を惹きつけるような――
「……マザーコンピューターは、よく考えるように言っていました」
ラオインの思考を遮るかのように、ルリが口を開く。
「人間である私たちは、マザーのように即座に解を出せない存在です。そして、解を間違えてしまうときもあります」
じいっと、青い瞳が見つめてくる。
それは、先程青い部屋で見た青い星よりも、なお深い青。
「ラオイン、私では駄目でしょうか」
「ルリ嬢。君は結婚というモノがわかっているのか……!?」
彼女の問いかけに、ラオインは反射的に返した。
あぁ、このお嬢様は寂しいだけなのだ。自分と同じく生きた人間なら、誰だって良いのだ!
それが、ラオインは気に入らないし悲しいのだと、この時に自分自身で理解した。
「いいえ、知りません」
ルリは長いまつげが、瞳を覆い隠す。
「……図書館や資料室などの膨大な資料やデータ、記録の類により知識はあります。ですが、父の存在も母の存在も知らないひとりぼっちの私は、誰かから伝え聞いた『ほんとうの言葉』を聞いたことがありません」
きゅ、と一度唇を結んで、それからまた彼女は震える声を絞り出す。
「だから……知りません。本当はそれがどんなものかなんて、知らないんです。結婚という儀礼も、夫婦という結びつきも、恋や愛がどんなものなのかも……まるで知らないんです」
悲しそうで、儚げで、今にも消えてしまいそうで。
……実際、ラオインが来なければ、彼女は消えていたかも知れない。……この屋敷、この世界、この青い星とともに。
「マザーコンピューターは、私たち二人で家族となり、そして新たな家族を作り出してほしいのだと思います。そうでなくては、この家もこの世界も存続できませんからね」
「それで、貴女は構わないのか……?」
「……」
彼女は、ラオインの問いかけには応じなかった。
代わりに、というわけでもないだろうが、ぽつぽつと語り始めた。
「私は……マザーコンピューターが苦手なのです。……あれは、あの機構は、このお屋敷を存続させ続けるためだけに、私を生かして呼吸させ続けてきたのですから」
ルリはその可憐な
彼女は、ただ生かされるだけの存在。
ひとりぼっちで囚われて、何かを成すでもなく生み出すでもない、ただ存在していることだけを強いられる。
それは……あまりにも恐ろしいこと。
ラオインは存在を認められずに殺されようとしていた。
ルリは存在を存続させ続けるために生かされていた。
「それでも、私はこう尋ねます」
そんな二人は、出会ってしまったのだ。
「ねぇラオイン、家族になってくれませんか」
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