良きスパイスとは






 ぱらり。



 ページをめくる音が、室内に響く。

 他の音はない。



 いや、あるといえばある。

 ラオインが耳を澄ませば、ぽつぽつと雨粒が硝子窓を叩く音がしていた。

 あとは時折風の音がするぐらいで、とても静かだ。


 朝食を済ませ、ラオインはベッドに座り本を読んでいた。

 もう腕はだいぶ痛みなく動かせるようになっているので、このぐらいは問題ない。

 ページをめくるどころか、今朝はカミソリを使ってヒゲを剃ることまで出来ている。

 刃物を使っても本当に大丈夫なのかとルリは心配しているようだったが、カミソリなどよりもっと大きな刃物――剣や槍だって扱っていたのだ。こんな可愛らしいもので今更怪我などしない。するわけがない。




 ぱらり。

 ページをめくる音。



 ゆったりとした、仕事も鍛錬もしなくてもいい時間。

 ちょっと前のラオインが今の姿を見たなら、殴り飛ばしそうなぐらいの……罪深いほどのんびりとした、何もしない日々。


 けれど、これはこれで充実している過ごし方だと思う。



 最近では、食事がお粥だけではなく、パンや麺類といった品も出てくるようになった。時間にせきたてられることもなくゆっくりと食べるそれらは、とても美味しかった。

 料理に詳しくは無いラオインだが、味音痴というわけでは無い。そういったこともちゃんとわかる。


 朝食に出たサラダひとつとってもそうだった。

 大きめにざっくりと手で千切られたみずみずしい緑の葉野菜たち。

 まるでベリーのような赤さで小さくつるりとした球状をした、プチトマトという名前の野菜。

 いかにも栄養が詰まっていそうと思えるあざやかなニンジンは、どうやって切ったのかわからないほどに細く長い。

 輝くような黄色でふっくらつぶつぶとしたビーズのような形をしたのは、とうもろこし、という穀物らしい。

 その上に、黄身がまだ固まりきっていない半熟具合に茹でられた卵だ。それを四つ切りにしたものが花びらのように並べられている。

 そして、そんな色とりどりのサラダをまとめ上げるのは、白いドレッシングだった。塩をかけただけでも充分食べれるだろう野菜を、そのドレッシングという代物が美しく、かつ美味い『美食』へと進化させていたのだ。


 生野菜など食べられたものでは無いと思っていたラオインも、そのサラダのことは認めざるを得ない。


 ……あれは美味かったな。

 また食べられるだろうか。


 とうもろこしはぷちぷちとして甘くて、ニンジンはしゃきしゃき、プチトマトは歯を立てるとうまみが弾けて、葉野菜は口の中にふわりと心地良い香りといい具合の苦み。

 そしてドレッシングのまろやかさと酸味。

 ……ルリは確か『マヨネーズに手を加えたドレッシングのようですね』と言っていた。

 なら、マヨネーズなるものは、きっとさぞ高価で大変な代物なのだろう。あんなに美味いのだから。



 ぱらり。

 そろそろ腹が減ってきたな。と思いつつ、またページをめくる。

 ずっとベッドの上で座って本をよんでいるだけなのに、腹は減るのだ。


 ベッド脇にあるテーブルに腕を伸ばし、ルリが置いていってくれた懐中時計なる品を手に取りかちりと蓋を開ける。

「確か……長い針と短い針が真上で重なるぐらいが昼食時だと言っていたな……」


 短い針はほとんど真上に来ていた。

 けれど、長い針はまだ左手方向に真っ直ぐに伸びている。

「……これは、あと十五分ほどか」


 ルリは、今日は朝食を済ませると本を何冊か置いて部屋を出ていったっきりである。


 彼女は、今までずっと、献身的に付き添って世話をしてくれていたのだ。ラオインも大分体の自由がきくようになったし、彼女に手助けして貰わなくとも――

 とは思う。思うのだが、寂しいという気持ちも沸いてくる。

 ルリだって、自分のやりたいこともあるだろうし、こんな大きなお屋敷のご令嬢なのだからやらねばならないこともたくさんあるのだろう。

 ラオイン一人に縛り付けるわけにはいかない。


 ……彼女にご飯を食べさせてもらったり、伸びてきた髪をいてもらったり、眠るときには子守歌を歌ってもらったりも、もうないのだろう。

 寂しいことだが。



 ぽつ、ぽつ、ぽつ。

 雨粒が、すこし大きくなったのか、音が妙に響いて聞こえる。




「あと、五分」

 ラオインは読んでいた本を閉じて、懐中時計をじっと見つめていた


 彼女は――ルリは、昼食を一緒に食べようと言っていた。

 だから、この時計の短い針と長い針が一緒に真上に来れば、彼女もこの部屋にやってきてくれるのだ。


「あと、四分」


 早く来て欲しい。

 そして、一緒に美味しいものが食べたい。


「あと、三分」


 なのに、本当にこれは動いているのだろうかと疑いたくなるぐらい、時計の針は進みが遅い。


「あと、二分……」


 懐中時計を持つ手に、思わず力が入る。 

 と――


 扉を敲く音が、数回。

 そして。

「ラオイン、入りますね」



 向こうから、小鳥のような美しくよく通る声が聞こえた。

 ラオインはかちゃりと懐中時計の蓋を閉めて、元の場所に戻す。



「……昼食時には、まだ一分早いのでは?」

 嬉しくて、つい入室してくる彼女にそんなことを言ってしまう。

 彼女を困らせるつもりはないのに、ついついそんな意地の悪い台詞が浮かんでしまうのだ。これまで、人に嫌われないように、人に好かれるように、人に自分の味方についてもらえるようにと、そんなことばかりを考えて生きてきた反動なのかも知れない。


「早いですけど、ラオインに会いたかったんです」

 にっこりと年相応の幼さで微笑むルリは、愛らしい。

 今日の彼女は、赤いワンピースドレスを纏っている。その上には真っ白でたくさんのフリルとレースとリボンで飾られた可愛らしいエプロン。いつもはさらりと流している長い髪は、今日は高い位置で結われて大きな赤いリボンが結ばれていた。



 そんな彼女の後ろから配膳用のワゴンを押して入ってきたのは、ここで料理人をしている人形のモルガシュヴェリエだ。

 彼は中肉中背の男性型。それだけならこれといった特徴は無いのだが、ごく薄いピンクの髪の毛をしているのだ。短く刈られているそれは、まるでぽわぽわとした桃の産毛のようにも見えて妙に美味しそうに思えてしまう。


 そんなモルガシュヴェリエは、とてもなめらかに『人間のような』笑みを浮かべて「おやおやお二人とも」と、からかうように言ってくる。

 同じ人形でも人工知能の学習とやらで、こうも違うらしい。

 確かに、その笑みの形のように細められている瞳はピンク色の硝子玉で、その台詞を読み上げているのはどこかぞっとするような『音』にすぎないのだが――ラオインとしては、彼は好ましい存在だと思っている。



「ルリお嬢様は、私の仕事をお手伝いしてくださったのですよ」

 ラオインのベッドに、専用のテーブルを用意して、テーブルクロスをさっと掛けながら彼は楽しそうに言う。

「……でも、私のせいで時間がかかってしまってごめんなさい、モルガシュヴェリエ」

 申し訳なさそうに、ルリは小さな声で謝る。

 なるほど、彼女が今日の午前中ここにいなかったのはそういうことらしい。


「いえいえ、それも私どものお役目なのですよ。嬉しいことです」

 配膳しながら、彼は心から嬉しそうな笑みを浮かべている。……人形に心が無いというのが、ラオインには信じられないぐらいだ。

「お嬢様が料理をしたいと言い出すとは、このモルガシュヴェリエの計算外でしたが、それも嬉しい誤算でございますよ」

 そして、最後にサラダの皿をテーブルに置いた。

 ……そのサラダは、朝食のサラダとまったく同じ野菜が使われて、全く同じようにマヨネーズを使っているのだろう白いドレッシングがかかっている。

 手抜き、というわけではない。

 彼ら召使い人形にとってはそういう手抜きはありえない。ということは、だ。


 これは、ラオインが食べたいと思っていたものを作ってもらったのだ。

 それもおそらく、ルリがこのサラダを作ってくれたのだろう。

 このサラダは、ただの食べ物のはずだ。にもかかわらず、そう分かると急に愛しささえも湧いてくるのが不思議だ。


「ラオイン様はご存じですか」

「何を、だ?」

「……最近のルリお嬢様は、食べる量が増えたんですよ。以前はどんなにアクアシェリナや私が成長期に必要な栄養なのですと説いても、食べたくないからの一点張りでしたのに」

 ルリが、恥ずかしそうにうつむいて「困らせるつもりは別に……」と言い訳らしきものを呟いて、エプロンのフリルをもじもじといじっている。彼女のこういう反応を見ると真実であるらしい。


「このお屋敷の召使い人形である私には、味覚はありません。しかしこういうことは知っています」

 料理人の役目を持つ人形は、どこか眩しそうにその瞳を細めて教えてくれる。



「食事の時間の楽しさこそ、良きスパイスである。とね」




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