鈴蘭の花束を






「はい、どうぞ」



 今日も、ルリは嬉しそうに笑ってラオインの口元にスプーンを差し出す。


 まるで幼い子供になったようだ、とやや照れくさく思いつつもラオインは素直に口を開けてスプーンの上のお粥を食べていた。

 伏籠家のお粥はラオインがよく知っている麦粥ではなく、米という名前の穀物を柔らかく煮たものだった。

 雪のように真っ白でふわふわな米の中に、今日は卵の黄色が入っていてほどよく優しい甘さだ。



「塩加減はいかがですか?」

「ちょうど良い。いつもながら、こちらの料理人は腕がいいのだな」

「ふふふ。ラオインがそう言っていたと、ちゃんとお伝えしておきますね」


 くすくすと笑ってから、ルリはもう一口分お粥を差し出す。

 ふかふかのベッドに座ってクッションに背中を預けたまま、ラオインはそれを食べる。

 常に己を律し、学び続け戦い続けたラオイン・サイード・ホークショウはこんな怠惰なことをしたことがない。戦場で刀傷を負っても、休むこと無く前線に立ち続けていたのだから。

 だけど、この現状はあまりにも――甘美だった。

 ここはあまりにも、温かくて穏やかな優しい空間なのだ。



 ラオインを害する者など、ここにはいない。

 この世界にはそんな存在はいない。



 初めは信じられなかったが――ここは、あの残酷な世界とは文字通り『違う世界』なのだというのだから。


 宮殿のように豪華な部屋、高度な技術で作られているのだろう人形の召使い、食べ物は望めばいくらでも出てくるだろう。なによりここの住人だというルリの手入れが行き届いた髪や肌や手指、それに纏っている美しいドレスを見れば、理解できてくる。

 ここはラオインの生まれた国ではなく、かといって別の国というわけでもなく、天の国、いと高きところ、湖の向こうの理想郷、神々の館、そう呼び習わされるような場所の一種なのだろう、と。……ルリは「そういうご大層な所でもないですよ」と苦笑いをしていたが。


 だから、何も心配する必要が無い。

 追っ手などいない。

 ラオインを陥れようとする者もいない。

 誰もいない。

 ただ、目の前にいる優しく美しい少女だけが住む世界なのだから。




「お水もどうぞ」

「ありがとう」


 食事を終えて、ルリが差し出すのは『プラスチック』という落としても割れない素材でできたマグカップ。ラオインはまだ腕に痛みがあり、硝子や焼き物の器を持つには不安があったのだが、これなら軽くて使いやすい。


 ……そういえば、ここの水は飲みやすいな。

 マグカップに口をつけながら、ラオインはそんなことを考える。

 故郷の水と比べると、この水は柔らかい印象がある。

 水というのは場所が変われば性質や成分が異なるのだと、知り合いの学者気取りが言っていたのでそういうことなのだろう。


 ラオインが水を飲んでいる間に、ルリはお粥の皿を片付けていた。そして、ベッド脇のテーブルに本を何冊か持ってきてくれている。

 タイトルを見ると、何か冒険物語のシリーズものらしい。……そこに書かれた文字は明らかにラオインが学んだ言語とは違うとわかるのに、きちんと読めて意味も理解できる。おそらくは、その言語を書くこともできるのだろう。不思議だがそういうことになっているようだ。




「少し休んだら、今日のリハビリをしましょうね」

「あぁ」

 この世界にまだ人間がたくさんいたときに書かれたのだという本を、ラオインの膝に広げてくれる。

 挿絵には、大海原に小さな船で旅立とうとする青年。

 それを見ているだけで、この物語が希望や探究心といった輝くものに彩られていることがわかる。もちろん、困難や障害も待っているのだろうが。


 ルリは、傍らの椅子に腰かけて詩集らしき小さな本を開いていた。

 彼女の癖なのか、書かれている詩を口に出して読んでいた。それも、歌うようにリズムをつけている。


 ――海は青くて深くて大きくて、

 ――たくさん生命いのちを抱えてて、

 ――私はそれに魅せられて、

 ――釣り糸ぽしゃりと落とします。

 ――生命いのちのお裾分けをくださいな?


 豊かな海とたくましい釣り人の関係、とでも言えば良いのだろうか。面白みとちょっとの皮肉で出来ている詩だ。

 ルリがリズムをつけてこの歌を何度も何度も口ずさんでいるので、ラオインは膝の上の本を読むふりをしてじっと聞いていた。

 彼女は自分が詩を口に出して読み上げていることに気づいていないが、小鳥のような愛らしい声であまりにも可愛く歌うので、不快な気持ちは湧いてこなかった。むしろ、ラオインとしては、毎日この時間はこれを楽しみにしている。


 小さく体でリズムを取っているので、レースの付いたリボンで飾られた長い黒髪がさらさらと揺れる。昼の光が彼女の黒髪をよりいっそう、きらきらと美しく見せていた。

 年若い少女の、柔らかそうな綺麗な髪。きっと手触りもすべすべで気持ちいいのだろう。


 ――触れたい。


 ラオインは年甲斐も無くそんな思いを抱いてしまう。

 そのたびに、こんな若い少女に勝手に触れるなど何を考えているんだ。二十九歳にもなって、こんな、自分の年齢の半分ぐらいしか生きていない少女に。……と、心の中で自分を殴り飛ばしているのだが。



「ラオイン?」

 唐突に名前を呼ばれ、びくりとする。

 まさか、考えていたことを見抜かれたわけでもないだろうが。


「珍しくぼんやりしてらっしゃいましたね」

「……すまない」

「どうして謝るんですか。悪い事じゃありませんよ」

 くすくすと、ルリが面白げに笑う。

 まさか本人に向かって「あなたの髪に触れたいと思って見つめていた」とは言えない。


「それじゃあ、今日の分のリハビリをしましょうか」

「あぁ。早く歩けるように、頑張らねば」

「頑張りすぎてもダメですからね。……それじゃあ、右足の膝から下に力を入れてみてください」

 ラオインとしては早く歩行訓練をしたいのだが、ルリはいつもまだ早いと言う。

 だが、右足に力を入れて少し浮かせるだけでも疲れ切ってしまう現状では、それも仕方ないのだろう。


「……だいぶ動かせるようになってきましたね。歩けるようになったら、いっしょにマザーコンピューターのところに行きましょう。あなたをここに呼んだのも、きっと『あれ』なのでしょうから」

 何も心配ありませんからね。

 ちゃんとあなたを元の世界に返してあげられますからね。

 だから……。


 彼女はそう言って、愛らしく微笑む。

 その笑みに、わずかに哀しみが含まれているように思えるのは、ラオインの願望なのだろう、きっと、そうなのだ。




 と、その時だ。


 ノックの音が数回、鳴り響いた。

 これはメイド人形のアクアシェリナかとも思ったが、それにしては音には妙に勢いと元気がある、気がする。


「どうぞ、入ってくださいな」

「失礼します!」

 聞こえたのは、元気の良い少年のような声。


「ルリお嬢様、花をお持ちしたぜ。こちらの部屋に飾るようにとのことだったけど、花瓶はありますかい?」

 それは、やはり声というよりは『音』ではあったが、いくらか柔らかい。

 言葉遣いも、アクアシェリナのそれよりは人間らしくしようとしているのが感じられる。


「えぇ、ガーネディゼット。花瓶はあちらの棚にいくつかしまってあります」

「かしこまりました。じゃあ合いそうなのを見繕っておくので」

 彼の日焼けしているいかつい顔――正しくは、健康的な印象を与えるため日焼けしているような肌色にされたヘッドパーツ、だそうだが――が、にこっと笑っているように緩む。


 ガーネディゼットは庭師の役割を持つ召使い人形だ。樹木の手入れや花の世話などの作業がしやすいようにということなのか、百九十センチはあるだろう身長と、それに見合う立派な体格の男性型人形。

 真っ赤な髪が、まるで柘榴石ガーネットのようだからと、ルリは彼をガーネディゼットと呼んでいる。


 ルリは彼を、人工知能の学習がかなり進んでいると言っていた。

 ラオインにはまだよくその言葉の意味がわからないが、多分……より人間に近い振る舞いが出来る人形、と言うことなのだろう。



 少しして、ガーネディゼットが小さな花瓶をベッド脇のテーブルにそっと置いた。

 大きな緑の葉と、たくさん連なった白く小さな可憐な花。


「本日の花は、鈴蘭スズランです。今の季節ここの庭園に咲く花を――とのご要望でしたのでね」

「ラオインはまだ窓からこの庭を見られないので、でも、花ぐらいは、と思ったのです」

 ルリが、遠慮がちにそう言葉を添える。

 まだ部屋の中も自由に歩けず、窓際にもたどり着けないラオインに、少しでも外の空気を感じてほしいということなのだろう。


 ガーネディゼットが、赤茶色の瞳を細めてこう言う。

「鈴蘭の花言葉、ご存じですかい?」

「……いや、知らないな」

 問われたラオインだが、鈴蘭の花言葉どころか、花言葉というものの存在すら知らなかった。

 花言葉。


 この世界には、そんな雅やかなものがあるのか。




「ま、今度教えてあげますよ。その前にルリお嬢様が教えてくれるかも知れませんがね」

 どこか楽しそうな声音で、庭師人形はそう言って部屋を出たのだった。



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