『人形』
『この世界には、生きた人間は私とあなたしかいません』
しばらく、ラオインはその言葉の意味が飲み込めずにいた。
人間が、いない。
それは一体どういうことなのか。
ここはどこなのか。
では、ルリは何者なのか。
しかし、それらを問おうとしたところで、ルリの白い手がラオインの髪を撫でた。それは労働を知らず、清らかで、優しく美しく柔らかな手。
「おなかは空いていませんか? 起きたのですから、栄養がずっと点滴ばかりでは気も滅入ってしまうでしょう」
そして、彼女は硝子のベルを摘まんで小さく鳴らした。
「召使いに、おかゆでも持ってきてもらいますね」
「あ、あぁ……」
ラオインが呟くようにどうにか応えると、ルリは気まずそうに微笑んで傍らの椅子に腰掛ける。
……それにしても、彼女が言っていた『おかゆ』というのは多分麦粥のことなのだろう。
麦の粉を水に溶いて温めただけの麦粥は、パンを焼けないような貧しい農村などではよく食べられている。ラオインがいた国では、ごく一般的な食事。貴族や都市に住まう裕福な商人も麦粥を食べはするが、チーズやミルクや蜂蜜を入れた『贅沢な麦粥』となる。が、ラオイン自身は正直言ってあまり好きな食べ物ではない。
それでも今は――まともに咀嚼するちからもない今は、それを食べるしかないのだ。
ここの料理人が少しはマシな麦粥を作ってくれれば良いのだが――と、そこまで考えていて、ラオインはふと思った。
――召使いに、おかゆでも持ってきてもらいますね。
さっきルリは、召使いに持ってきてもらうと言っていた。そうなると、ここには召使いがいる。ということになる。あたりまえだ、このベッドだけでここまで清潔で手入れがされているのに、まさかルリが一人で暮らしているわけでは無い、はずだ。さっき聞こえていた、妙に不気味な声の主だっているのだろう。
……だが、彼女は人間はいないと言っていた。
では、召使いというのは一体。
小さなノック音が数回響く。
それと同時に、するりとルリが椅子から立ち上がって、ラオインの耳元に顔を寄せて小さく小さく呟く。
「この屋敷の召使い達の姿は、もしかするとあなたを驚かせるかも知れません」
その声は、なぜだろうか。……なんだか少し悲しげに聞こえてしまうのだ。
そして、彼女はドアのあるのだろう方向へ向かって「どうぞお入りなさい」と入室の許可を告げた。
その瞳は、薄い水色の硝子だった。
その肌は、真っ白く焼かれた磁器そのものだった。
その手は、まぁるい球体の関節が存在していた。
そして、その
「ラオイン、紹介しますね。彼女は私の身の回りの世話をしてくれるメイドのお役目の人形。この屋敷の召使いです」
ルリが、静かな声でそこにたたずむ人形の説明をする。
ここの召使いというのは、まるで人間のように動く人形のことらしい。
「私は彼女のことを、アクアシェリナと呼んでおります。あの……よければ、ラオインもそう呼んでくれませんか?」
ルリは、まるで懇願するように両手を祈りの形に組んでそう言った。
アクアシェリナ。
その人形は、身長百六十と少しぐらいあるだろうか。ルリよりはかなり背が高い。
ごく薄い水色の瞳と、同じ色の髪を持ち、清潔そうな黒のワンピースドレスと白いエプロンを身に着けていて、いかにも忠実で優秀な従者然としたたずまいである。
変わった髪の色と瞳の色をのぞけば、ラオインのいた国の上級貴族子女付きの侍女とでも紹介されたなら充分納得できるのだろう。
だが――
ゆっくりと、そのメイド人形はラオインに一礼する。
硝子の瞳には一切の感情は無い。
彼女は淡々と、自分の役目を遂行すべく配膳用ワゴンから食器や皿を取り出していくだけだ。
「お食事をお持ちしました」
そして、その声には温もりが無い。声と言うよりは――音、なのかもしれない。不快ではないのだ。むしろ美しい音なのだが、何か心のどこかがぞわぞわとさせられる。
「あぁ。ありがとう、アクアシェリナ」
それでもラオインは彼女にそう礼を言う。
「……」
ルリは泣き出しそうな嬉しそうな顔で見つめてきていたのだが、当の本人であるアクアシェリナは静かに一礼するのみであった。
「他にご用はございますでしょうか?」
「今はありません。何かあればちゃんと呼びますので、それまで休んでいてください。……ご苦労さまです、アクアシェリナ」
「かしこまりました、それでは失礼いたします」
からからと配膳用ワゴンを押し動かす音と、扉がなめらかに開けられ閉じる音――
「ありがとうございます」
それらの音を確認して、ルリは礼の言葉を述べる。
「ありがとうございます。その、彼女を、名前で呼んでくれて……」
震える声。けれどその震えは恐怖からなどではないようで、どうやら嬉しさから来ているものらしい。
「アクアシェリナという名前は、私がつけたものなのです。彼ら――この伏籠の屋敷で働く召使い人形たちに本来は名前はありません。それぞれ性能や製造日時などを示す番号があるのみなのです。だけどそれでは――寂しいので。私は寂しいので、その」
ラオインは、自分の兵の中で支給された軍馬にこっそりと名前をつけている者がいた事を思い出してしまった。
他の国ではどうなのか知らないが、ラオインの生まれた国では軍馬にはいわゆる名前は無い。生まれたときの日時や所属などを元にした番号が割り振られるのみである。
ただ、ともに戦う『相棒』たる軍馬にそうした番号だけしかない事を、年若い兵達はあまり好んでいなかった。
今のルリは、そんな者達にちょっとだけ似ているかもしれない。
「ともに過ごせば、情もわく。そうなれば、その者だけの名前で呼んでやりたくなるのだろう?」
「えぇ。……そうなのです」
「素敵な名前をつけてやったのだな」
ラオインがそう言うと、彼女は少しだけ恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに、その青い瞳を細めて愛らしく微笑んだ。
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