『人間』




 こつ、こつ、こつ、こつ。


 ……気配とともに、小さく軽い足音が近づいてくる。

 気づけば、奇妙に淡々とした不気味な声の主は退室したようだった。


 こつ、こつ。

 足音はベッドのすぐ傍で止まる。

 そして、今度はしゃらしゃらしゃらり……と軽やかな音と供に、ベッドから下がる薄布のカーテンが開け放たれ昼の明るい光が射し込んだ。


「あ……」


 カーテンから顔をのぞかせたのは、まっすぐな黒髪がさらりと美しい少女。ラオインが意識を失う前に出会った、あの少女だ。

 どうやら泣いていたらしい。現に頬には幾筋もの涙の痕がある。

「それは、どうしたのだ」

 ラオインはそう尋ねずにいられなかった。

 けれど、少女はきまりわるそうに首を振って、か細い声でこう応える。

「なんでもないのです」


 ……いくらなんでも嘘が下手すぎる。

 たぶん、嘘とかごまかしとか演技だとか、そういうすべを学ばず、また必要とすることもなく生きてきたのだろう。

 なんだか……明るい室内にあってなお、この少女が眩しく見えた。




「その、もう目覚めていたのですね……。呼んでくださればよろしかったのに」


 少女はごしごしと目元を拭い、枕元に顔を近づけてささやくように話す。微笑んではいたが、どこか苦いモノが混じっている。

「あぁ、おはよう。世話になってしまっている」

 多分今は朝というわけではないと思うが、ラオインが目覚めの挨拶として「おはよう」という言葉を使うと、なぜか少女は目をまるくして、それから困惑したように視線を右に左にとさまよわせて、そして、下を向いて少しの間何かを考えているようだった。

「……おはよう、ございます」

 そう言った少女の表情は、ラオインにはなんだか妙に嬉しそうに緩んでいるようにも見える。まるで、覚えての言葉をはじめて使う時の子供のように。


「何か困ったことや不便なことは、ありませんでしたか?」

 彼女はベッドのすぐそばにあるテーブルの上に載っていた、透明な硝子でできたベルを両手でくるむように持ちあげる。それはラオインが見たこと無いほど美しく澄んだ硝子で出来ていて、すこしのゆがみもない。おそろしく高価そうな代物だ。

「これを鳴らせば、すぐにでも召使いが参ります」

「ありがたい。まだまだ動くには難儀しそうだからな。……特に、この右足はもう動かないのだろう?」


 びくりと、ドレスに包まれた華奢な肩が哀れなほどに震えた。

「聞いて、いたの、ですね……ごめんなさい」


 痛々しいほど悲しげなその謝罪の声に、申し訳なくなりながらラオインもまた謝罪する。

「いや、こちらこそ盗み聞きしてしまったようで、すまない」



 しばらく、居心地の悪い沈黙がその場を支配していたが、この少女は逃げ出すことはなかった。


「あの、その足は」


 そして、こちらを目を合わせぬまま、ぽつぽつと歯切れ悪く話し始める。

「きちんとリハビリをすれば、少しは動かせるようになるかも知れません……それでも、完全に自由にとは行かないと思います、走ったりといった、負担のかかることは、もう……。だけど、それはもう歩けない、ということではないので……」


 おそらく、リハビリというのは怪我をした箇所を動かすための訓練だとかそういう意味の言葉のようだ。

 それをちゃんとこなせば、日常生活の範囲ならそれなりには問題ない、と言ってくれている。

「ありがとう」

「……え」


 少女は、ラオインを見た。

 ラオインの瞳をまじまじと見た。

 なんどもなんども瞬きをしながら、信じられないものを見ている表情で見つめていた。

 そして彼女の、小さいがふっくらとした唇が何かものいいたげに開こうとしている。


「あなたは」

 ようやく、小さな唇は言葉を紡ぎ出す。


「あなたは……やはり……『人間』なのですか……?」

 とても不思議そうに、とても悲しそうに、とても……期待しているような声音。



「それ以外の何に見えると言うのだ」

 自分は人間かどうか。

 そんな、いろんなモノの前提であるはずの事を、こんな真剣な空気で尋ねられては――さしもの黒鷹将軍ラオイン・サイード・ホークショウも困惑するよりない。

 貴女は一体何を言っているのだ。

 そんな思いから、ついトゲのある言葉を返してしまう。



「何に見えるって…………『人形』とか、ですけど」

 けれど、少女はラオインを見つめて、とても真面目な顔でそう答えた。


「血液のようなにおいの潤滑オイルが流れていて、体表が体温に限りなく近いように温めておくヒーターがあって……そして……まるで、まるで、人間のように受け答えする、とてもよく学習した人工知能が搭載されている……コストをたくさんかけて作られた、人間そっくりにつくられた『人形』です」


 彼女の言葉にはわけのわからない単語もあったが、とりあえず言いたいことは、ラオインを人間らしく見せている人形では無いかと疑っている……ということらしい。


「そんなわけないだろう」

 思わず苦い笑いがこぼれる。

 そんなものを作ったところで――何の役に立つのか。対して面白くも無い見世物にはなるだろうか。いや、金と手間暇をかけてそんなことする意味が、無い。


「人間なんてそこらにいくらでもいるし生まれてくるんだ。そんな人形に何の意味があるんだい?」

 大きめの街の路地裏を少し行けば、男でも女でも若者でも子供でも、いくらでも売られているし買えるだろう。……ラオインの母もかつてそうだったように、だ。


「……では、本当に本当に……そうなのですか」

「あぁ。私は人間だよ。人形などではない」



 少女は、美しい青い瞳に困惑や歓喜や悲しみや驚きと言った感情を代わる代わる浮かべていた。


 そして。

「あの、私は伏籠ふせごルリと申します。伏籠が姓で、ルリが名前。あなたのお名前を聞かせてください。人間なら名前があるのでしょう?」

 と、低く抑えているのだろう声音で尋ねてくる。


「ルリ嬢、か。……俺の名はラオインだ。ラオイン・サイード・ホークショウ」

 ラオインの自己紹介に対して、彼女は青くふわふわしたドレスの裾をつまみ、わずかに腰を落とした淑女の礼をして応えた。



 なぜ、この少女――伏籠ルリがこんな不安定で不安げな様子だったのか。このときのラオインには考えもつかなかったのだ。




「……ラオイン。ようこそ、伏籠ふせごのお屋敷へ。ようこそ、鳥籠の世界へ。この世界には生きた人間は私とあなたしかいません」




 そう、ルリに教えられるまでは。


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