真っ白なシャツ
その日、ラオインは初めて部屋の窓際まで歩くことが出来た。
ようやくたどり着けたそこからは明るい日差しが射し込んでいて、歪みの無い硝子の向こうには、鮮烈なほど眩しく美しい緑と、その合間にぽつぽつと花の色らしき白や黄、紫や淡い青が見えた。
目の前に広がるそれは、庭園というにはかなり自然そのままで野趣溢れている気がする。
この部屋は二階のようで、かなり遠くまでよく見えた。
森に、花畑に、なだらかな丘。橋の架かった湖。ところどころに泉や小川。
「あっちにあるのは菜園と果樹園で、あちらは牧場です」
今日は華やかで美しいピンクのドレスを纏ったルリが、窓の向こうを指さしてひとつひとつ教えてくれる。
「あれは花畑。あの湖の向こうには小さな聖堂があります。もちろん無人ですけどね」
広い広い森に囲まれた土地。その木々の合間に、この屋敷は存在しているらしい。
天気が良いからだろうか。
外は妙にきらきらして見えた。
「窓を開けましょうね」
「いいのか?」
「いいんです」
嬉しそうに言い切って、ルリが窓に手を掛ける。
とてもよく手入れされているようで、さほど音をさせずになめらかに窓が開く、と……ふわりと風が舞い込んできた。
土の匂い。緑の匂い。花の匂い。
それらを含んだ新鮮な風に、ラオインは圧倒されてしまう。
しばらく窓枠に手をついてぼんやりと外を眺める。
「もう少しすれば、庭園にあじさいが咲くんですよ」
「……あじさい?」
まるで聞いたことのない名前だった。あじさい、というのは珍しい花なのだろうか。
「えぇ、土壌によって白や紫や青に咲くんです。本当は、花びらのようにに見える部分は花じゃないらしいのですけどね。ガクだそうで」
「けれど美しい花なのだろうな。それが咲く頃には、俺ももっと歩けるだろうか」
「そうですね……」
ルリはそこで、ラオインの顔を下から覗き込むように見つめた。
「では、その時のために……まぁ、そのためだけでもないのですが、お洋服を新調しませんか?」
彼女の話によると、ラオインが今まで着ていた服は体の大きな人形召使い用の衣装だったらしい。季節が移り変わるのでこの機会にちゃんとしたものを、とのことだった。
「これから温かくなりますし、薄物を仕立ててもらいましょう」
「しかし、今の服でも充分では?」
そんな言葉に、彼女はぷるぷると首を振った。
「うむぅ……」
このお屋敷に逗留するからには、きちんとした身なりをしろ――ということなのだろうか。確かに、ただでさえいかついラオインなのだ。身なりぐらいは整えなくては、見れたものではないのだろう。
「では、お言葉に甘えるとしようか」
「わぁ……! あの、実を言うとですね。お針子の召使い人形を今待たせてるんです。紹介したいんですけど、いいでしょうか?」
なんだかほんのちょっとだけはしゃいだような様子で、ルリがそんなことを申し出る。
もしかしたら、そのお針子の人形というのはルリが大切にしている存在なのかもしれない。
ラオインが承諾すると、彼女はすぐに窓辺に椅子を持ってきて「ここで待っていてください」と、早足で部屋を出て行ってしまった。
ふわりと、風が白いカーテンを揺らす。
あぁ。こんなにも気持ちいいものだったのか。
眼下の緑も生き生きと茂っている。あの草の絨毯の上で昼寝でもしたらさぞ良い夢が見れるに違いない。そんなことを考えて頭の中で遊んでいた。
――そういえば、あの樹。
ふと、ラオインは最初にこの世界に来たときのことを思い出す。
あの美しい花が降る場所はどこなのだろうか。
いかにも儚い薄紅の花びら。
降ってきていたということは、多分かなり大きな樹に咲く花なのだろう。だが、それらしい薄紅色はみつからない。
――あれは、もう散ってしまったのだろうか。
きっとそうだろうと思いながら、諦めきれずについ窓の外を探してしまう。
「ラオイン」
と、小鳥のような声で名を呼ばれる。ルリだ。
「ラオイン、お針子の召使い人形を連れてきました」
振り返ってみれば、ルリとその背後にもう一人……いや一体、紫色の髪をした人形がちょこんと立っていた。
「……」
その人形は、ルリと同じぐらいか少し低いぐらいの身長だろうか。ほっそりとした体を包んでいるメイド服から伸びる手足も、小さく細く華奢な印象がある。
目立つ紫色の長い髪は、二つのみつあみお下げに纏められていて、まったく同じ色をした硝子の瞳には、いかなる感情も浮かんでなどいない。
……これまで見た、どんな人形より人形らしい。というのがラオインの抱いた印象だ。
「さぁ、アメジスティーニャ……ラオインにご挨拶しましょう」
けれど、そんな『人形』に対するルリの目と言葉は、どこか優しい。
ルリは、このアメジスティーニャという名の人形に特別の思い入れでもあるのだろうか。
紫色の人形は、ゆっくりとお辞儀をして……そして例の声――というより音をゆっくりと発する。
「はじめまして。ラオイン様」
ぎぃ、ぎぃぃ……と、球体関節がきしむ音。実際には、そんな気がしているだけなのに。
「この度の、お仕立てのご用命」
ぎぃ、ぎぃ。
「つつしんで承ります」
ぎぃ。
「お好みのデザインはございますか」
じぃっと、生命のない紫色の硝子に見つめられて、ラオインは動けなかった。……ほんの、一瞬だけだが。
「あ、あぁ。デザインの好みは特にないが、できれば動きやすい方が良い。あと、このボタンという留め具は便利なので、それを使ってくれるか」
そう自分の意見を『彼女』に述べる。
アメジスティーニャはそれを、こくこくと頷くような動きで聞いていてくれた。
ルリは、少しうつむいてその場にじっと立っていた。
ラオインがちらりと見たその瞳は、どこか切なそうに、寂しそうにしていたが……彼女が自分から言わないのなら、理由は聞くことは出来ないだろう。今は、まだ。
数日後、仕立て上がり届けられた衣服を手に取って、ラオインは驚くより他に無かった。
真っ白で清潔なシャツ。どこまでも正確で丁寧な美しい縫い目。軽く、しなやかでなめらかな手触り。
シャツ一つとっても、故郷ではありえないような……質の良すぎる品だ。
「あの、気に入ってくださいましたか?」
おずおずとラオインの様子をうかがっているルリに、問い返す。
「どうして」
「え……?」
「どうして、ここまで良くしてくださるのか」
その疑問に、青色の綺麗な瞳をまっすぐに向けて、ルリは答えをくれた。
「私はあなたを大切にしたいから、ではいけませんか?」
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