第24話 オイディプスの末裔たち

 みなさんは俺TUEEEって好きですか。いや、チートでもチーレムでも何ならいま流行りという追放&復讐ものでもいいんですが、主人公がオーバーパワーで他を圧倒する展開ってどう思います?


 正直なところ、わたしはあんまり好きじゃないんですよね。そうしたテンプレを用いること自体は否定しないんですけど、どうにも見せ方として安っぽいものが多い気がします。


 そもそも、わたしの趣味として、落伍者には破滅の道をたどってほしいんです。これらの異世界ものって、主人公が落伍者であることが多いんですが、それらはあくまでタメとして扱われてしまう。無双、ハーレム、復讐の前振りに過ぎないんですね。


「ジェイムズ・サリスは、ハイムズ、トンプスン、グーディスというノワールの代表作家三人を俎上にあげた評論集Difficult Lives(九三)のなかで、“犠牲者、失敗者、落伍者、過去の人間たちの影”にこれほど徹底した強迫観念をいだいている作家はあとにもさきにも存在しないというマイク・ウェリントンの言葉を引用していた(ミステリマガジン一九九六年十月号「モノトーンの生涯」)」

 吉野仁『ピアニストを撃て』解説


 孫引きどころか玄孫引きなのでわかりづらいですが、落伍者に焦点を当てた、という点で異世界ものはノワールと共通します。しかし、そこから先の展開が違う。あるいは、異世界ものでも破滅的なラストを迎えるものは少なくないのかもしれませんが、わたしのセンサーには引っかからない。まあ、単純に異世界ファンタジーが好きじゃないのもあるんですけど。

 

 異世界ものにかぎらず、わたしはサクセスストーリーというものが好きじゃないんです。むしろ、現実が舞台の方が受け入れがたいかもしれない。異世界ものはみんな嘘だってわかってて読むわけですが、現実ものだと、そこに夢を見てしまうかもしれないから。


 もちろん、夢や希望を持つことは大事です。それはこの連載でも書きました。しかし――これもそのとき併せて書いたことですが――、希望というのはそうやすやすと成就させてはいけないんです。だから、社会的な成功をはっきりと形にしてしまう話にはどうしても違和感を覚えてしまう。


 その点、好ましかったのが映画『ガタカ』です。この作品は、SFであると同時に一種のサクセスストーリーでもあります。遺伝子操作が常識となった世界で、劣った遺伝子を持つ主人公が、それでも宇宙飛行士という夢に向かって邁進する。


 この話の何がよかったかというと、主人公のなりふりかまわなさです。自身の夢のためならば、周囲を欺き、ルールを曲げることもいとわない。そのくらいの覚悟がなくては夢は叶えられない。そうした突き抜け方が心を打ったのですね。


 人生は進研ゼミの漫画ではありません。勉強も部活も恋も全部上手くいく、なんてことはありえません。たとえ、物語であっても、そうした絵空事をよしとするのは、やはりどこか不純に思えます。はたして、そんな都合のいい話で人の心が動かせるでしょうか?

 

「成功するから信じるなんて不純な話よね。単に見返り期待してるだけでしょ。そんな打算的な心でどれほどのものを手に入れられるかしら? 裏切りも暗闇も知りながらなお進める者だけが誰にも決して奪えないとても佳いものを手に入れられるのよ」

 城平京原作/水野英多作画『スパイラル ~推理の絆~』最終話「Spiral ~なるべくなら良き日々が多くありますよう~」(読点引用者)


 また、映画というと「ヤングファミリー興亡史もの」のような文法も、サクセスストーリーとしては受け入れやすい形式のひとつです。興亡、というからには必ず最後には破滅が待ってるわけですから。それに、映画ならどんなに長くても3時間もあればきちんと破滅まで描いてくれる。


「「ヤングファミリー興亡史もの」。どういうことか?っていうと、要は夢はあるけど金もコネもないっていう奴らが擬似的な家族、つまりファミリーという風になっていって、で、独自のKUFU(工夫)を重ねていくことによって次第に成功を遂げていく。が、大抵その幸せの絶頂を迎えたシーンの直後に、あるポイントでボタンの掛け違いが始まって転落が始まっていき、最終的にはみんなバラバラになる。なんなら、敵同士にまでなってしまう、というような話」

 【映画評】宇多丸、映画『日本で一番悪い奴ら』を語る!(2016.7.9放送)


 これは『日本で一番悪い奴ら』のレビューですが、宇多丸氏は他にこうした作例として、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『スカーフェイス』、『グッドフェローズ』、『ブギーナイツ』などを挙げています。マーティン・スコセッシはこの手の作品をたくさん撮ってますね。


「ヤングファミリー興亡史もの」とはちょっと違うかもしれませんが、同じく映画の『ネットワーク』なんかも好きだったりします。TV業界が舞台の作品なのですが、視聴率のためならなりふりかまわないプロデューサーの栄光と転落がとても痛快です。


 この作品にかぎらず、自己目的化した成功願望と、商業主義的なモーメント、その空疎さを描いた作品はたいてい好きだったりします。これはノンフィクションですけど『日本共産党の戦後秘史』なんかも最高でしたね。反資本主義を掲げる共産党であっても、結局のところ成り上がるのは権力志向の空疎な小物であるという事実がこれまた痛快でした。


「体制が腐敗しているのではなく、腐敗こそが体制なのだ」

 ジェイムズ・エルロイ


 若干「ヤングファミリー興亡史もの」に話を戻すと、やっぱりわたしは暴力と謀略による成り上がりが好きなんだなあ、と思います。言い換えると、まっとうな手段で成功してほしくない。そんなのはやっぱり嘘にしか思えないから。


 裏社会じゃなくても、成り上がるならマキャヴェリストたるべきだと思うんです。ただ最初から居直りすぎてたり、ことさら露悪的だったりするのもそれはそれで違うなと思ってしまうんです。


 なんて言うんでしょう。主人公には、あくまで社会の歪みの象徴であってほしいんですよね。だからあんまり暴力や謀略そのものに悦びを見出してほしくない。そこにカタルシスを持ってくるような作劇は好きじゃないんですね。それらはあくまで手段であって、他に方法があればそうしていた、という描き方であってほしい。


 つまり、結果として行われる悪を、主人公の資質に還元してほしくない。同じ立場なら誰もがそうした、という描き方であってほしいんです(だからと言って、ことさら同情的に描けってことではないです。むしろドライであってほしい)。


 まあ、それはともかくとして、ここからが今回の本題です。いや、前置きが長すぎだろって言われたらその通りで、ここまでくると、もう本題じゃないかもしれませんが、とにかく、今回最も語りたかったことを語ります。


 それは、成り上がりストーリー、負のサクセスストーリーにおいてしばしば用いられる展開――


 父殺しのイニシエーションです。


 わたしはこの展開がたまらなく好きなのですね。


 父殺しの代名詞オイディプスに象徴的なように、父殺しとはつまり王位の継承です。王位ほど立派なものでなくとも、父親の地位を継承するための通過儀礼として、父殺しは必要とされるわけです。


 尤も、父殺しと言っても何も文字通り父親を殺す必要はないんです。何らかの形で父親を超えたと示すことができれば、継承が許される場合も多い。


 ただ、それはどちらかといえば正のサクセスストーリーでの話です。負のサクセスストーリーにおいて、父親はしばしば文字通り子供に殺されてしまいます。そうでなくとも、謀略によって引きずり落とされることになります。子供はその地位を奪い取る形で成り上がっていくのです。


 この場合の父親、というのも戸籍上の父親とはかぎりません。場合によっては、女性ということもあり得ます。『魔法少女育成計画』なんかはそうした作例ですね。あれもやっぱり父殺しによる王位簒奪の物語なわけです(なので、わたしはあの「子供」にあたるキャラがめっぽう好きです)。


 他にも『アルドノア・ゼロ』だったり、『LAコンフィデンシャル』だったり、『アメリカン・デス・トリップ』だったり、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』だったり、『不夜城』シリーズだったり、ちょっと変則的ですが『新しき世界』だったり、父殺しによる成り上がりを描いた物語は多く見受けられます。結果として、父殺しを成したキャラクターはラスボス化することも珍しくありません。成り上がりとはちょっと違いますけど、『機動戦士ガンダムSEED』のラウ・ル・クルーゼにしたって父殺しの試練を経て大魔王化してるわけですね。


 わたしが父殺しの物語にここまで惹かれる理由は自分でもよくわかりません。個人的な話になりますが、わたしの家庭では父親が不在がちで、憎悪や殺意を向けるだけの存在感はありませんでしたし、また、父殺しによって継承できるような地位もありませんでした。


 なのに、なぜ。


 あるいは、思春期に、それまで刷り込まれてきた神を殺し、自分だけの神を確立しようともがいた経験が、父殺しの物語に共感させるのかもしれません。旧約聖書的な、戒律の神、というのはしばしば父親と重ねられてイメージされますから。

 

 尤も、そうした個人史的な理由だけじゃないのはなんとなくわかってるんです。


 というのも、わたしの創作上の趣味というか、手法的、構成的なフェチシズムとして、「継承」というモチーフが好きというのがあるんです。


 あるキャラの想いや力が別の誰かに引き継がれる――


 なるほど、ドラマとして熱いよね、燃えるよね、『グレンラガン』とかもそうだもんね、という声が聞こえてきそうですけど、わたしの場合ちょっと違うんです。あくまで作劇上のメカニズムとして萌えるというか。


 たとえば、父殺しの物語が重宝されるのって、それが人類の集合的無意識的な部分に訴えかけるから、というだけじゃなく、物語を段取りよく進めるのに都合がいいからってのもあると思うんです。


 というのも、成り上がりを描くうえでゼロから地位を固めていく――その過程を描くのってなかなか大変じゃないですか。それよりはすでに誰かが持っている地位を奪ってしまった方が手っ取り早い。『アルドノア・ゼロ』なんてまさにその繰り返しですよね。


 また、特定の思想や人格性を描く上でも、あらかじめ完成された人物像を用意して、それを主人公に継承させるっていう方がスマートなんです。『CURE』なんかもそうですね。この手法は、日常側の人物を徐々に非日常に持ってく上で非常に有効なんです。闇堕ちもこのパターンを踏むと手っ取り早く説得力を付与できる。『東京喰種』なんかが代表例ですね。


 物語序盤の、日常から非日常へ、ってプロセスでもたつく書き手はその辺ができてないんだと思います。これはまたいずれ詳しく語ることになると思いますけど、物語っていうのははじまった時点で、ある程度状況が煮詰まってないといけないんです。ただ、一方で、主人公に感情移入させるためには、なるたけ日常的なシークエンスから入らなければならないというジレンマがある。


 わたしは、それを解消するのに最も手っ取り早い手段が「継承」だと思っていて、手段も目的も能力も、主人公に先行する誰かから継承させてしまえばいいのではないかと考えています。起承転結で言えば、起の時点で、その先行者と主人公を遭遇させることでそれを導入とし、その地位を継承させてしまえば、スピーディーに物語が進められるのではないかと。


 と、今回も話がだいぶ多方面に広がってしまいました。この「趣味嗜好編」も全10話の予定なので「好き」を全部語り尽くそうとするとどうしても長くなってしまいます。おかげで、前回の更新からだいぶ間が開いてしまいました。「毎日更新」が挫折した以上、焦らず、マイペースに続けていく予定です。

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とある字書きの休筆日記 戸松秋茄子 @Tomatsu_A_Tick

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