第23話 心理主義の軛から逃れて

こいの測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに」

 オスカー・ワイルド『サロメ』(福田恒存訳)


 心理主義という言葉があります。簡単に言えば、人の状態や行動、社会的な現象を、個人の内面に還元して解釈、説明する考え方です。


 心理主義は精神論や自己責任論と結びつきやすく、度が過ぎると、社会的な問題を覆い隠してしまう危うさを孕んでいるのですが、ここではそんな真面目な話は置いておいて、能天気にフィクションの話をします。


 小説における心理主義。これも簡単に言ってしまえば、心理描写を重んじる姿勢のことです。「心理小説」と言ったら、その手の名作がいくつか浮かぶ人も多いのではないでしょうか。特にフランス文学が得意としてきたジャンルですね。代表選手としてスタンダールやラディゲの名が浮かびます。


「どのページにも、将棋の駒の塔や道化の動きとすこしも変わらぬといえるような、女の心もしくは男の心の動きがある」


「作者の確実にして冷酷な操作に、象牙のぶつかりあう乾いた音が感じられる」

 

 これらは評論家のアルベール・ティボーデがラディゲの『ドルジェル伯の舞踏会』を評した言葉です。当作は作者自身が「心理がロマネスクであるところの小説」を目指したというだけあって、外界や人物の外見の具体的な描写もほとんどなく、ヒロインの容貌さえ定かではないところを特徴としています。


 と、ここまでWikipediaを引き写しながら書いてます。というのもラディゲは『肉体の悪魔』しか読んだことがないので……じゃあ、どうしてその話をするんだって言われそうですけど、心理小説の極北として真っ先にイメージされたのが『ドルジェル伯の舞踏会』だったのです。これは、この作品から影響を受けた『武蔵野夫人』を読んだせいかもしれません。いや、あの作品、風景描写もけっこうな割合で入ってた気がしますが。『肉体の悪魔』の方がまだ心理心理してた気がします。ドルジェル伯はもうちょっと純粋なんでしょうか。


 とにかく、いまはどうかわかりませんけど、心理小説というものは文芸の一ジャンルとして確立されていたということです。つまり、人間の内面というものはそれだけでエンタメ(とあえて言いますが)たりうる。


 心理描写に重きを置くのは、なにも純文学にかぎった話ではありません。


 たとえば、本格ミステリの世界でも連城三紀彦という凝りに凝った心理描写の名手がいます。尤も、彼の場合、心理描写そのものというよりは、心理描写をはじめとする過剰とも言えるレトリックによって荒唐無稽なトリックに説得力を与えることの方が主眼のような気もしますが。実際、彼の作品が持つ叙情性はある種の紋切り型であり、読者を欺くためのテンプレートであるという指摘もあります。


 ただ、連城がすごいのは、そこに「演技」という意識を持ち込むことで、紋切り型を演じる心性、さらに言えば、演じること自体が目的化していく倒錯を描いている点でしょう。それらの傾向が最も凝縮された短編として「喜劇女優」(『美女』収録)が浮かびます。


 尤も、個人的なことを言わせてもらうと、フランスの心理小説にしろ、連城にしろ、心理を描くにあたって恋愛を主題としているのが、どうも趣味に合いません。以前にも書きましたが、わたしは恋愛に憧れもなければ、経験もないので、その手の話にどうしても共感できないのです。


 その代わりに――と言うべきか、わたしが趣味としてきたのが、広い意味での犯罪小説です。

 

 たとえば、ノワール小説。ノワールと言うと、ハードボイルドの類縁のようなイメージが強く、実際、間違いでもないのですが、一方で、ハードボイルドの客観性、行動主義性に背を向け、主人公の内面を掘り下げる潮流もあります。代表的作家のトンプスンやグーディスを読めば、その傾向は明らかでしょう。現代ノワールに目を向けても、『ホワイト・ジャズ』、『TOKYO YEAR ZERO』のように社会的な意識が強いものでも、文体は内向性の極みのような「意識の流れ」のそれであり、視点は終始主人公から動かずに進行します。


 映画にしても、『深夜の告白』や『サンセット大通り』の冒頭に象徴的なように、ノワールというのは何よりもまず主人公の物語であることが強調されるんです。「ノワールにおける悲劇は主人公の主体的な問題に還元できる」という指摘もあるくらいです(諏訪部浩一『ノワール文学講義』)。


 かように、ノワールというのは心理主義的な側面があるわけです。


 もちろん、例外はたくさんあって、ノワールの祖とも言えるハメットからして、バリバリの行動主義派です。これは、彼がノワールの祖であると同時にハードボイルドの大家でもあるからで、その辺が話をややこしくしています。


 そもそも、大戦前後、あるいはノワール映画の登場前後でノワールというジャンルそのものが大きく変容してしまったこともあり、「ノワール」とひとくくりに語るのは危険だったりします。


 また、ハメット式のハードボイルドと、チャンドラー式のハードボイルドも私立探偵ものというくくりでは同じですが一方で全然違うジャンルでもあり、非常に紛らわしいです。


 が、それらの事情を説明し出すといくら紙幅があっても足りないので、とりあえずここではわたしの個人的な用法として「ノワール」という語を使っているのだとご理解ください(もっと学術的なことが知りたい方は『ノワール文学講義』を読んでください)。


 とにかく、ノワールでは、恋愛の代わりに犯罪を主題として、主人公の内面を掘り下げているということです(もちろん、ファム・ファタールはつきものですが)。そこに痺れる憧れるってわけですね。


 また、サイコ・スリラーの源流とも言うべき、ニューロティック・スリラーも内向性の高いジャンルです。マーガレット・ミラーの『狙った獣』などはこの路線を代表する傑作でしょう。『悪魔に食われろ青尾蠅』もそうですね。逆に、現代のサイコ・スリラーはどうしても猟奇殺人とその捜査という外面的な部分ばかりがフィーチャーされがちなのであまり馴染めません。


 犯罪心理への興味というなら、何も小説にかぎった話ではなく、殺人事件のルポも一時期はよく愛読していました。真偽はともかくとして、そこで展開される殺人犯の心理分析にはいたく共感したものです。特に宮崎勤事件を扱った『M/世界の、憂鬱な先端』からは多大な影響を受けています。他にも『窒息する母親たち』、『退屈な殺人者』、『十七歳の自閉症裁判』、『津山三十人殺し』、『少年殺人者考』、『死刑のための殺人』、『死刑の基準』、『死体と暮らすひとりの部屋』、『死刑でいいです』などには心動かされました。


 創作をはじめた頃は、書いたものにこれらの影響が如実に表れていると思います。犯罪者でなくとも、社会の落伍者を主人公に、その心理を律儀に追ったものが多いです。「焔暁生の炎の半生」、「闇と怪物とクロスワードパズル」などはその極みですし、いま連載してる「砂漠より」なんかもそうですね。尤も、心理小説らしさを最も意識したのは「ハクチョウ」だったりするのですが。


 この頃のわたしが好んで用いていたのが、個人的に「誘導尋問話法」と呼んでいた手法です。早い話が、誘導尋問のように読者の意識をコントロールして、主人公の行動に納得させていく作劇法のことです。詳しくはまた別の機会に語ることになるかもしれません。


 ただ、どうしてでしょうね。あるとき、ふと、そういう心理主義的な芸風を続けるのが嫌になってしまった。


 それはやっぱり、あらゆる問題を個人の内面に還元する危うさに気づいたからかもしれないし、単純に、心理描写一辺倒だと小説として一元的でおもしろくないと思ったのかもしれません。


 実際、たとえば、連城の作品は短編はまだいいとして長編ではどうも首を傾げてしまうことが多いです。あれはあれで余人にはとうてい真似できない境地に達していておもしろいのですが、自分が長編に求めるものとは違ってきます。同じく心理描写を重んじる作家にしても、トマス・H・クックならまだ納得感があるのですが。


 と、そんなことを考えながら書いた最初の1作がおそらく「鼠を殺す」で、ここでは語り手の独白を極力削り、キャラクター間のやりとりによって、主題を表現する方向にシフトしています。


 言うなれば、それまで独白で葛藤を表現していたところを、それぞれの欲求や主張を擬人化させて外形化したのがこの話と言えます。登場人物がみな兄弟という設定なのもそのためです。彼らが一つの人格を共有していることを示唆しているのですね。


 早い話が、『おそ松さん』みたいなものです。あれだって、ニート童貞という共通の人格を六つに分裂させて描いているわけです。あれがたとえば、一人のニート童貞が延々と独白してるだけだったら全く印象の違う話になっていたでしょう(『四畳半神話大系』みたいになりそう)。


 ただ、『おそ松さん』と違うのは、主人公をはっきりと定めて、極力空疎な主体として描いているところです。これも、心理分析のメスから主人公を遠ざけようとした結果ですね。まあ、読み手が勝手にメスを入れる分には全然かまわないのですが。


 この話以降、主人公の内面世界を外界に投影する形で世界を構築する方法論に傾いていきます。それを自分の中で極限まで突き詰めたのが、カクヨムデビュー作の「the cat's meow」で、以降、直接的な心理描写をほとんどしなくなります。


 だからまあ、やってることとしては初期から変わってないとも言えます。けっきょく、主人公の内面を軸に話を組み立ててるわけですから(厳密には一概に主人公の内面を表現してるとも言い切れないのですが、説明がややこしいのでここではスルーします)。ただ、表面的な違いとして直接的な心理描写をやらなくなっただけで。トンプスン・グーディス派からハメット派に鞍替えしたのかと言うと、そう単純な話でもありません。20世紀フランス文学界において台頭したヌーヴォー・ロマン(アンチ・ロマン)ともまた全然違うと思います。


 きっと、わたしの発想はどこまで行っても心理主義的で、だからこそ、それをどうにかごまかそうともがいているのでしょう。


 貧者でありながら、それでも物語を書こうと思ったら、誰でも持っているもの、つまり心を描くしかなかった、というのがわたしの創作における出発点です。そこから逃れようと必死にあがき続けた結果として、いまがある。


 心だけではなく、肉体や、社会、自然、あるいは自然さえ超えた神秘的な何か。


 それらを作劇に取り込もうと試行錯誤を続けてきました。ただ、わたしにとってそれらはいずれも不可解で、道理など見出しようがない。だから、不条理に描くしかない。その結果として、因果関係の説明を重んじるミステリから離れて行ったのだと思います。


 いまのわたしはむしろ、現代エンタメは心理描写に寄っかかり過ぎじゃないか、心理主義に過ぎるんじゃないかと疑問を投げかける立場だったりします。これは映画を観るようになったせいかもしれません。もっと、黒沢清の映画のように動機も何もない空疎な主体がのさばってもいいのに、と思ってしまいます。


 漫画原作の実写化が叩かれるのだって、いわゆるオタクの人たちが「キャラクター」を重んじすぎるからでもあるでしょう。何も見た目にかぎった話じゃありません。むしろ、内面を重んじすぎている。実写化にかぎらず、漫画と親和性の高いアニメ化であっても、原作の解釈から外れた描写がなされたとたん非難を浴びることになります(もちろん、単純に改変の方向性が安易すぎるということも多々あります)。というか、原作であっても「キャラ解釈」から外れるのはご法度みたいなとこがありますね。もちろん、書き手が下手でキャラが破綻してしまっている場合はどうしようもないのですが、なんでもかんでも一貫性があればいいというものでもないと思います。有名な話ですけど、シェイクスピアなんてその辺無茶苦茶ですよ。


 だから、わたしは、『DEATH NOTE』の実写化シリーズにおける「のアイデンティティ? 最初にデスノートを拾うこと。それだけ。性格は知らん」っていう融通無碍なスタンスは嫌いじゃなかったりします。


 と、今回は話が多方面に広がりすぎましたね。論旨があやふやですし、説明を端折った部分も多いです。それらはまたいずれ語られるべきことの伏線ということでひとつ。

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