第22話 日常と名探偵

 日常の謎、といったらおわかりになるでしょうか。


 殺人をはじめとする犯罪にこだわらず、日常に謎の題材を求めて、ロジカルな謎解きを展開するミステリのサブジャンルです。アニメ化された『氷菓』で知ったという方も多いかもしれません。


 日常の謎は言うなれば、ミステリにおける「謎」にセンスオブワンダーを取り戻す試みとも言えます。密室や、首切といった、定番のガジェット、言ってしまえばクリシェに対して、新鮮な謎の形を提示して見せる。そんなジャンルだと。


 日常の謎、というと勘違いする人も多いのですが、何もほのぼのとした話ばかりではないんです。『氷菓』もそうですが、このジャンルの旗振り役とも言うべき北村薫からしてそうです。名作「砂糖合戦」では、「喫茶店の客が紅茶に砂糖を何杯も入れるのはなぜか? 」という謎の背後に隠された人間の悪意が描かれます。これはまだ日常の枠に留まった話ですが、中には、日常の謎を突き詰めていったら最終的に犯罪を掘り起こしてしまう、というパターンもあります。最初は日常からはじまってるだけに、スケールの落差に驚かされることになります。


 さて、前置きがなくなりましたが、ここからが本題です。わたしはこの、日常と事件が直結しているパターンがめっぽう好きだったりします。理由はうまく説明できないのですが、とにかく好きなのです。


 日常と事件が直結しているパターン。


 これは何も日常の謎に限った話ではなくて、普通の殺人が起こるミステリでも、仰々しいトリックが使われたものより日常に謎を求めるものの方が好きだったりします。


「論理的に解明されたとき、犯罪の進行の各段階は、すべて必然性を持って読者の前にしめされます。したがって、犯罪そのもの、犯罪から生まれる謎そのものは、偶然に発生したものでも、かまわないわけです」

 都筑道夫『黄色い部屋はいかに改装されたか?』


 つまり、トリックなどなくとも、ミステリは成立する。たとえば、関係者の日常的な行動が事件の謎を形成することもある。都筑道夫の「狂い小町」なんかはまさにそういう話ですね。


 さて、ここから若干話がそれます。


 都筑道夫は「トリックよりもロジック」という主張で知られますが、同時に名探偵の復活を謳った人でもあります。これは社会派全盛時代ゆえの発言でもあるのでしょう。ただ、新本格ムーヴメント以降の猫も杓子も名探偵という状況を見ていると、逆に食傷気味になってる人の方が多そうな気もします。


「俺は名探偵が嫌いなんだ。完全無欠で、小説内の世界で絶対的な権力を持ち、最後には容疑者を集めて得意そうに犯人を指し示す名探偵が。俺はそんな名探偵が登場するたびに思っていた。お前が殺されればいいのにと」

 浦賀和宏『記憶の果て』


 わからない話じゃありません。わたしも名探偵はあんまり好きじゃない。例外があるとしたら、瀬川みゆきや雪御所圭子、法月綸太郎みたいに事件にかかわってボロボロになってくタイプですね。あるいは、メルカトル鮎くらい居直ったものも好きですけど、彼は名探偵ならぬ銘探偵ですしね。


 キャラ付けとして、とりあえずエキセントリックにしとこうとか、とりあえず毒舌にしとこうみたいな安易さが透けて見えるものは興醒めです。尤も、逆にヒューマニスト路線を貫くのもそれはそれで繊細なケアが必要になってくるので難しいのですが(その高いハードルを越えた例として学生アリスシリーズの江神さんが浮かびます)。


 いや、名探偵のキャラクター性なんてものは、実のところそんなに問題じゃないんですよ。わたしが苦手としているのはむしろ、彼らが登場することでもたらされる視点のありようなんです。


 ミステリっていうのは、関係者たちの物語を、探偵という一種のメタな視点から語るジャンルなんです。言い換えると部外者の視点ですね。特に職業探偵の場合、彼らは事件の当事者ではないことが多い。リュウ・アーチャーなんかが代表的ですけど、「インタビュアー」なんです。


 それが、なんだかなあって思ってしまうんです。どうせなら、関係者たちの視点から事件を描いてほしいなあ、と。だって、その方がエモいじゃないですか。探偵側に物語がある例も少なくありませんけど、せいぜい相棒との絆だったりロマンスだったりといったところで、あんまり自由なことはできません。やったらやったで、謎解きとのバランスが崩れます。


「しかしキャラクターを生かそうとすれば(書こうとすれば)ほとんど必然的に物語は長くなり、謎解きの部分を圧迫するか、謎解きとしての長さの上限を超えるか、どちらに転んでも謎解きの密度は低くなります」

 城平京『小説 スパイラル ~推理の絆~ 4 幸福の終わり、終わりの幸福』


 名探偵の苦悩、みたいなことをやるにしても、ミステリ的な必然性がないとチープに見えるのがオチです。ミイラ取りがミイラになる、というのもパターンのひとつですが、これもやっぱり必然性が要りますし、シリーズ展開が難しくなります。


 ならば、やはりシリーズの探偵ではなく、ワンオフの素人探偵の視点から、事件を物語ってほしい。D・M・ディヴァインなんかはそのタイプですね。本格ミステリからは外れますが、クリスティをして「彼女はいつも違う」と言わしめたマーガレット・ミラーもそれに近い。トマス・H・クックの、関係者による「回想」という形も素人探偵もののひとつの答えでしょう。


 さて、寄り道が長くなりましたが、日常と事件の話に戻ります。


 わたしは、当事者の視点から事件を描いてほしいと言いました。日常と事件が直結しているパターンが好きだとも。


 日常の延長線上で起こる事件が好きです。というか、日常が事件の一部に変わってしまう。もっと言えば、日常が実は事件の一部だったと気づかされてしまう。そんな話が好きです。だって、ロマンがあるじゃないですか。何気ない日常の裏に、実はどす黒い犯罪が隠れているかもしれないなんて考えるだけで胸が躍ります。事件は現場で起こってるんじゃない! 日常で起こってるんだ!


 そうした作例のひとつが北山猛邦「恋煩い」(『私たちが星座を盗んだ理由』収録)でしょう。また、カクヨムで読めるものだと以下の作品が浮かびます。 


「オーバーライト」

https://kakuyomu.jp/works/1177354054888109695/episodes/1177354054888109707

※いきなり12章からはじまりますが、間違いではないのでそのままお読みください。


 ただ、難しいのは、この趣向があまり長い話に向いていないということです。実際、例に挙げた2作はいずれも短編です。「オーバーライト」と同作者の「スクール・マーダー・フェスティバル」は長編でこの趣向に挑んでいる、と言えなくもないのですが、かなり特殊な例だと思います。あとはもう『夏期限定トロピカルパフェ事件』くらいしか浮かばない。『殺す風』も近いんですが、早い段階で事件が起こってしまうので日常と言い切ってしまっていいかどうかは微妙なところです。


 東京創元社のお家芸とも言える「連鎖式」で似たような作例がいくらでもある? いや、たしかに似てるんですが、それらは基本的に連作短編の色合いが強く、また、当事者視点という性格が薄いことが多いので少しずれてきます(『夏期限定トロピカルパフェ事件』も連作短編と言えば連作短編なのですが)。


 連作短編ではなく長編をやるとしたら、日常からはじまるにしても、中盤くらいで死体を転がさないと間が持たなくなってきます。そうなると、クリスティの『ゼロ時間へ』みたいになってきちゃいますね。


「すべてがある点に向かって集約していく……そして、その時にいたる――クライマックスに! だ。そう、すべてがゼロ時間に集約されるのだ」

 アガサ・クリスティー『ゼロ時間へ』(三川基好訳)


『ゼロ時間へ』は『ゼロ時間へ』でおもしろいのですが、殺人の謎フーダニットが主体になってくると、ちょっと違うなあ、と思ってしまいます。


 その点、おもしろかったのが『地球平面委員会』で、中盤に死体を配してはいるものの、それはあくまでもっと大きな謎の副産物に過ぎない、という処理が好みです。この作品では、大学生の主人公の視点から、彼の日常を蝕む不気味な何かの正体をとても印象的に描いています。バカミスと言えばバカミスなのですが、軽快な青春ミステリとしておすすめします。


 と、かように語ってきたわけですが、うまいこと伝わってるか自信がありません。特に例として挙げた作品を知らないとさっぱりでしょう。とりあえず、日常と事件が直結した話が好きなんだとご理解ください。それと同じ理由で、異世界もの、ハイファンタジーが苦手なのだと。

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