分裂を前提にあなたはどう生きるか
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。
【ルカによる福音書 12章51~53節】
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木村拓哉が参加した「ぎふ信長まつり」が終わった。
この祭りに関する報道が面白い。というか、その報道に対する人々の反応・寄せられるコメントはさらに面白い。
キムタクが来るということで、先日の韓国での「群衆雪崩」事件があったばかりなので関係者は慎重に慎重を期したのだろう。当日になって、運営側がいきなり「それまで立ち入り禁止エリア」だった場所に人を入れる判断をしたのだ。それは、臨機応変に「危険を避けるため」取った措置なのであろう。
事実としてはそれだけなのだが、そこにある固定的立場からの「感想(というか感情)」が入ると、同じことを報じるのでもこうも伝え方が違うのかと面白い。
①信長まつり「熱狂の1日」……木村拓哉さんのファンらであふれる歩道、岐阜市が下した一つの「決断」 【読売新聞】
→ここでの決断は『英断』に近い意味で使われている。「さすが!」と運営側の臨機応変な対応によって祭りを無事終えられたことを称賛する立場の記事
②当選者「何のための抽選だ!」……木村拓哉さん出演の祭り 立入禁止エリア開放に市「安全最優先で臨機応変に」 【東海テレビ】
「お前らどけよ!」「退場させろ!」木村拓哉さん見られず観覧席当選者から怒号も 事故防ぐ措置に不満の声 【名古屋テレビ】
→この記事では、市の臨機応変な対応で事故なく終えられたことを手放しには称賛しない。もともと混乱を避けるために観覧者を「抽選」にしたはずなのに、それでも見たいと勝手に押し寄せた人に「事故を起こさないため」とはいえ本来立ち入り禁止の場所をあえて解禁し、さらに悪いことに「その位置からのほうが、抽選当選者の場所よりキムタクがよく見えた」ことを問題視している。
東海テレビの報道のほうは「とはいえ、安全を最優先して臨機応変に対応したというのは一定の評価をするべきかもしれません」と結んではいるものの、あきらかにこの「不公平感」に焦点を当てている。
では次に、これらのネット記事に残されたコメントを見ていこう。立場によって以下のように分類される。
【参加した者・当選者 その1】
こっちは抽選で当選して、正当な手続きを経て見てんだ。
なのに、抽選してもないやつらが勝手に押し寄せて「安全を確保するため」にやつらのほうがいい場所から見れるなんて! 中には、位置によってはそいつらのせいで「よく見えなかった」当選者もいるらしいじゃないか。
やつらがおれらのうしろだったら、ここまでうるさく言わねぇ。オレらの前だってことがどうしても納得いかねぇ!
【参加した者・当選者 その2】
確かにさぁ、ちょっとどうかとは思ったけどさぁ。
キムタクや伊藤英明さんと同じ場所にいて、同じ空気も吸えたしまぁいっか、って感じ。見えただけでも十分ありがたいです。警備の人には感謝しかありません。ありがとうございました!
【参加した者・落選者(勝手に来た人)】
・韓国の事故があったので、ここでも見られるようにしますと言われました。特等席だと思います。
・(抽選で)当たるより良かった気がします。こんな近くで見れて、来てよかった!
【参加していない者・第三者(傍観者)のコメント その1】
・市と県警は良く対応しきったと思うよ。天気も味方したしね。大きな事故も無く、大勢の人達が楽しかったのなら、それでいいんじゃない?
・権利ガー当選したのにーって騒ぐ人いるけど、そもそもタダなんでしょ? なんでそこまで怒るの? 懐せまいねー。事故にならなかったんだから、そっちほうがよっぽど大事。
【参加していない者・第三者(傍観者)のコメント その2】
・確かに事故回避は大切ですが、遠路から来られたのに姿も見えないのでは、何のための当選かと憤る人がいてもおかしくない。要はルール守らない要領のいい人が得をしたということです。
・英断と言うが、これは大きな課題を今後に残すことになる。当選した人より、当選しなかった人の方が凄く良い場所で見れたと世間が知ってしまった以上、今後同じようなイベントの時に「ハズレてもそこに行けば見れるかもしれない」という考えになる人間が沢山でてしまい、観客が押し寄せる未来が考えられる。その悪しき前例を作ってしまったわけで、「今回無事故だったからよかったじゃないか」は浅い考え。
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このように、報道側でも「ポジティブに捉える派」「ネガティブに焦点を当てる派」があり、参加者側でも「不公平に納得できない派」「事故もなく祭りも楽しかったんだからそれでいいじゃない派」、参加していない第三者でも「事故が起きなかったことが大事・そもそも無料だったんだから権利くらいでゴネるな派」と、「いやいや事故が起きなったこと以上に、ハズれた人間でもゴネれば得ができると学習してしまった人間が、これから先のイベでも同じことやらかす可能性を生んだことが罪深い派」と分かれる。
やっかいなのは、この考え方のどれもが「決定的に、絶対に間違っている」と言えるものがひとつもないことだ。言い換えたら、どれもが「絶対にこれが正しい」と言い切れないものであるとも言える。どの立場も、その立場なりに一理ある。
イエス・キリストは、記事の冒頭に挙げたような言葉を遺した。
自分が来たのは、平和のためというよりむしろ分裂だと。
ここを、イエスが「人々を争わせるために来た」と文字通り捉えるのはオススメできない。イエスがここで言っているのは「この世界とはどういうものか」ということである。
●そもそも、個の違い(立場の違い)というものが存在するただそれだけで、争いの種は成立する。世界それ自体が「個の立場の違いからくる意見の食い違い、すれ違いを前提」としているので、争いを前提とする世界である。
よって、この世界からは争いが無くならない。この世界は、争いを無くすのが最終目標ではなく「争いが存在し続ける中で、あなたならどう生きるか」が問われるだけの世界である。あなたは、その宿命にどう抗うのか、ということを世に示すのが人生の意義である。
イエスは、お前らどんどんケンカせい、とけしかけているわけではない。
この世界はそもそも、立場の違いがあるだけで争いの種になるような舞台だよ。お前たちはそこに命として投じられたのだ。当然、人生の向かう先には問題というものが待ち構えている。程度や内容の差は個人間であるが、大同小異で必ず試練がある。
それを、どう生き抜くか。抗ってあなたなりの「善」や「愛」をどう貫くか。それを世に示し、生きた証として誰かの心に残して死んでいくことこそが「継承」であり、永遠の命である。決して、不老不死が永遠の命なのではなく次世代にバトンを渡しその次世代が少しでもあなたの伝えたものを役立てられたなら、あなたの肉体は死していても生きているのと同じなのである。
ゲームで勝つ喜びは、ゲームが与えた「障害・問題」を乗り越えるところにある。そもそもその障害が最初からないことにすれば問題ゼロだが、それではまったく楽しめないだろう。だから問題というものが必要なのだ。問題がある中でどうするか、がゲームの面白いところなのだ。
イエスは、この世界がそもそも個の違いにより、どうしても様々なドラマを生み出す宿命にあることをよく分かっていた。だから、宗教が言うような「救い主としてこの世界の悪を滅し、善と愛と光だけの世界にする」なんてことは微塵も頭になかった。そんなことを他人が言えばイエスは失笑したであろう。
世の中には、問題が怖くて「萎縮して」生きる者がいる。面倒を避けるために、できるだけ目立たないようにしよう。そのように生きる者に喝を与えるために来たのだ。ゲームに参加して敵をまったく攻撃しない(障害から逃げてばかり)というのは何をしているのか! と背中を押しに来たのだ。ゲームをやったものなら分かるが、攻撃をさけてばかりでいつまでもプレイが続くわけはなく、どこかで無理が来て自機が死ぬ。
ゆえにイエスは、この世界の前提を理解し受け入れて、同じやるなら楽しめ! その後押しを俺はやるぞと言っているのである。動かないやつには、なら動く気になるようにもっと後押ししてやるぞ(分裂を強化してやるぞ)と挑発している。このあたりはイエスが聖人というより、ひろゆき氏みたいな皮肉屋、毒舌家である
キムタク参加の祭りの例のように、ひとつの事象でも立場の違いによってかくも色々な意見があり、それぞれの立場からは「正解」であり、立場が違えば「そんなの間違い」となる。そんな世界であなたはどう生き抜くか? それが醍醐味のゲームがこの世界という幻想舞台なのである。
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