呪いについて考える
●すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、さらに多く要求される。
【ルカによる福音書 12章48節】
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
イエスのこの言葉は、あるストーリーの流れで語られた長い言葉の一部であるために「ちゃんと前後の話の内容を踏まえて理解しないとダメじゃないか」と言う人もいるだろう。
でも聖書というものは、一人の作者が一貫した意図をもって「最初から最後まで」書いた書物ではない。それはもう、改変だらけのつぎはぎだらけの、一体何人の人が元の文章に手を加えたんだ? というくらいいじられたものだということを知るべきである。
そうであるとするならば、逆に「前後の文章の意味に縛られない」読み方が、時として有効である場合がある。そうすることで、原文を都合よく改変しようとした聖書著者とは別人の意図をうまく回避し、オリジナルの意味合いに近づくことができる。
今回紹介しているのは、そういった「前後の描写を無視したほうが意味が分かりよい」聖句のひとつである。
分かりやすく、「有名人と一般人」の違いで説明しよう。
有名人は、沢山の人に知られている。大統領や世界的映画俳優、世界を股にかける大物ミュージシャンなら世界中の人が知っている。有名人は、自分が知らない人からも知られている、というところに特徴がある。
一般人は、自分を起点にして家族や親せき、仕事上の付き合いや関りをもった友人知人、よく行く店のスタッフなど、その人が知っている人物の数と、その人が何人の他人に知られているかの数がだいたい「釣り合う」。会ったこともない人があなたのことを知っていることはまず少ない。
イエスの言う「多く与えられた者」とは、大勢がその人のことを知っており、しかも好意的なイメージで捉えているという状態のことを指す。当然、その副産物としてその人物が経済的に豊かであったり、生きる上で一般人を大きく上回る「便宜」を図ってもらえる状況というものがある。
多く任された者というのも、上記の延長上にある。有名であり人気があるということは、仕事において引っ張りだこであるということである。それまでは仕事に困っていた漫才コンビが、M1で優勝したとたん睡眠時間が減るほど世から求められるというイメージを思い浮かべてもらえばいい。
筆者は、過去に「呪い」ということについて色々書いてきた。皆さんが「呪い」と聞いて想像するのは、怖いイメージのつきまとう、ホラー映画なんかで扱われるお馴染みの「呪い」を想像してしまうだろうが——
●ある人物が別の人物のことを心に思い浮かべること。
皆さん驚かれるかもしれないが、もうたったこれだけで「呪い」なのである。
何も、恨めしい思いで他人を傷付けたい欲求だけが呪いなのではなく、いい意味でも悪い意味でも、ちょっとでも心の中で他人のことを思えばそれ即「呪い」なのである。安倍晴明が言うところの「呪(しゅ)」である。
モノや生き物、人間についている名前も分かりやすい「呪」であるが、たとえばあなたが大好きな異性のことを心で考えたらそれも「呪」で、あなたが大嫌いな学校の先生のことを思い出しうんざりした気分になればそれも「呪」である。
皆さんは思うかもしれない。「他人のことをちょっとでも考えた時点で呪いになるんなら、その割には自分の思いはぜんぜん好きな人に届かないし、きらいな人が不幸になる感じもない。これ、呪いという割に効果ほとんどないんじゃね?」と。
●効果はある。ただ、あなたという個人の都合に沿うように発揮されるわけではない。分かりやすい、あなたに都合の良い展開にならないから効果がない、というのは早計すぎる考えである。
人が人を思えば、「必ず」その力学は働く。ただあなたが好きな人を思い浮かべればその人があなたに好意をもつ、というそんな風に都合よくは働かないということだ。その人物が置かれた環境・状況・周囲の他の人物の思惑や動きも加算され「より複雑な方向へ」その呪いは働いていく。
ここでようやく元の話に戻るが、一般人はその知って知られる人間関係、すなわち「呪いをかける・かけられる人間関係が限定的なものである」ことによって、非常に生きやすくはなっている。あなたを縛る呪いの数が少ないので、比較的対処しやすい。もちろん、一般人でもいじめであるとか犯罪に巻き込まれるとか、まれに厄介な「呪い」に巻き込まれることはあるにせよ、大まかな傾向としては比較的生きやすい。だが、それが有名人になるとどうか?
●有名人の実態とは、一般人が羨むものとは違う。
一般人の何百倍・場合によっては何十万倍もの「呪い」をかぶっている。
相当な胆力と強い動機・背負う覚悟がないととうてい生きていけない。
たとえば、キムタクを考えてもらったらいい。
彼については、その奥さんと子どもたちのことはまぁ置いといて、世間にはかなり好意的に認識されている。かっこよくて、アンチもいるだろうがたいがいは「好き」な芸能人なのではないだろうか。
じゃあ、大勢に好意的に認知されて彼はただただ幸せか、というとそうもいかない。好意的だろうと、知らない大勢すらキムタクのことを思うその状況が「呪い」なのである。必然、彼は自覚しないだろうが、その取る行動は知らず知らずのうちに「その呪いに沿うように」選択される。つまり、大勢の期待に応えるような人生になっていく。
まれに、その「呪い」の重さに耐えきれない人物もいて、「もういやだ!」とばかりに投げ出すこともある。そうなると、その「呪い」は叶えてもらえないために、その人物を恐ろしい方向にもっていく。
そうなった時の有効な手立ては、「供養」である。期待という名で降りかかる呪いに心から「ごめんね」と思い、これまでのことを「手放す」内的作業をすることで、まれに呪いを回避できることがあるが、実はそう簡単ではない。
資産家で、お金をたくさん持っている人がいる。
その人は「カネはカネで、いいも悪いもない」と思っているかもしれないが、実はその1円1円にまで、関わったすべての人物の思い、すなわち「呪」が込められている。それを人より膨大にもつということは、それだけの呪いを抱え込んでいるのと同じである。爆弾を抱えて生きているようなものである。
なら金持ちはどう生きねばならないかというと、そのお金に込められた「呪」を供養する方向の行動を取らねば、バランスのよい人生にはならない。たとえば、定期的に寄付をするとか慈善活動をするなどして、社会に貢献するなど。
それをしないと、ただ自分の私腹を肥やしエゴだけに生きていると、現実的に分かりやすく災難が降りかかるか、表向きには問題がなくても家庭や友人関係など、その人にしか分からないところで大きな悩みや問題が生じることが起きてくる。
多く与えられた者は多く求められ、多く任された者はさらに多く要求される。
イエスのこの言葉を読み解くカギは、「呪い」である。
大勢に知られ、また多くのモノ(資産)をもつ者は、それだけ呪いを多く抱えるということである。呪いは別にもっちゃいけないものではなく、その人が対処できる(抱えきれる)範囲であればぜんぜん問題ない。むしろ、抱える力があるなら逆に持つべきなのである。その分、人生で起きることのバリエーションが豊かになる。
ただ、抱えきれない分が問題だ。だから人は、自分の力量を見極めるべき。「もっともっと」ではなく、自分はどれくらいまでなら富をもったまま安定と幸せを維持できるか、という線を知って分相応に生きる方が良い。
過ぎた富、過ぎた名声は太刀打ちできないほどの「呪いの重圧」になってその人物を襲うだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます