億の金があっても持たざる者

●あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っている(と思っている)ものまでも取り上げられるであろう。



【ルカによる福音書 19章26節】



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 中国で、44億円の宝くじが当たった男性がいる。

 その男性は、素顔をさらさず全身着ぐるみ姿で受け取りに現れた。日本とは違い海外ならではだが、当選者は取材され報道の対象にされてしまうようだ。

 その男性は、着ぐるみで受け取りに来た理由として「当選を知ったら妻と子どもが働かなくなる」と思ったそう。だから当選したことを隠しておきたいらしい。

 筆者は彼には悪いが、どう考えても「隠し通す」ことは不可能だと思われる。知られるのは時間の問題だけだろう。そんな桁外れの大金の個人所持は、本人が口をつぐんでいるだけで守れるような秘密ではない。黙っていても外で色々な現象が起き、次第に気付かれていくことだろう。

 着ぐるみではあっても、そもそも受け取りに現れ画像なり映像なりで報道されたこと自体、もう詰みである。天才的なハッカーを抱える犯罪組織なら、その手がかりからだけでも本人を割り出しかねない。



 たとえば、ビル・ゲイツやジェフ・ベゾス、イーロン・マスク氏などがこの宝くじに当たっても、彼らの私生活や幸せ度に何の影響もない。日本でいうと、筆者は好きではないが前澤友作氏などはそうだろう。それはなぜか。



●すでに、そのお金があっても適正に所持し管理し、運用できるスキルとノウハウがある。そして受け皿としての会社組織をもっているから。



 では、一般庶民が当たってその多くが逆にその高額当選金のせいで「不幸」になるのはなぜか。それは、そのお金を適正に所持かつ運用できる知識や器・それ以上にお金持ちマインド(心構え)がないところにポーンと与えられるから。

 地に足が付かなくなって感心しない金遣いの荒さになってしまったり、カネのために群がる害虫(それがもとは優しかった友人や親戚たちであるという悲劇も)に対処しきれない。下手をすると親や配偶者、子どもまでが敵となり、お金がなかった頃にはあり得なかった問題で悩むことになる。

 きちっと手順を踏んで金持ちになった者は、経験値がある。自分の「敵」に対処する方法も心得ており、ちょっとやそっとでは上記に名前を挙げた人物を困らせてやろうと動いても、逆に返り討ちに遭うであろう。



 冒頭に挙げたイエスの言葉を思い出してほしい。

『持っている人にはなお与えられ、持っていない人からは持っているものまでも取り上げられる』

 


●ここで言う「持っている人」というのは、ただ富を「持っている」のではなく、きちんと筋道を踏んで、その富を得るに適正な力を所持していることも含まれる。



 だから、普段から金持ちでその維持ができる力がある人の所にさらに大金が来ても、問題がない。



●ここで言う「持っていない人」というのは、いくら宝くじでにわか富があろうが、その大金を所持する過程がほとんど運によるもので、その富の維持に関して何ら知識も心構えもない人間ならそれに当たる。だから、不幸になりやすい。持っていない人になるので、持っていると思っているモノ(宝くじの高額当選金)もよほど落ち着いていないと身の破滅に繋がるのだ。



 結論として、宝くじに当たった当選者はイエスの言葉で言う「持っている人」には該当しない、ということ。基本持たざる者なので、その当選金のせいでかなりの確率でその人のカバーできる範囲を超えたトラブルが不可抗力で起きることになる。



●分相応がやっぱりイイネ!



 あなたの心は、実は分かっている。自分がどの程度の器の人間なのかを。

 欲望というものは、そのあなたの心を曇らせ、やみくもに「もっともっと」と考える。誰だって数億円欲しいかと言われたら特に考え込まず「欲しい」と言えるはずである。でも、それは実際に得られることがまずないから。対岸の火事(うれしいことだが?)だから。

『三つの願い』という海外の寓話が一番人の愚かさと素晴しさの両面を言い当てている。おじいさんとおばあさんが「何でも願いを三つ」かなえてもらえることになり、事の重大性をわきまえず軽い気持ちで「ソーセージが食べたいねぇ」と言ったおばさんの願いがかない、ひとつめの願いが消費された。

 しょうもないことで願いをひとつ消費され怒ったおじいさんは「お前なんて、そのソーセージが鼻に引っ付いてしまえ!」と感情的に怒ってしまう。そうするとそれが二つ目の願いとして認定されてしまい、その通りになる。

 さぁ、どうする。最後の願いを他のものにすれば、おばあさんの鼻には一生ソーセージがついたままだ。本当に惜しいが、でもおばさんとの幸せには変えられない。

 結果、「ソーセージが取れるように」願い、三つの願いなどなかったのと同じになった。(ソーセージ一本は得したけど!)



●持たざる者(おじいさんとおばあさん)は、持っていたと思っているもの(三つの願い事がかなう権利)まで取り上げられたのだ。それをうまく扱うマインドがなく舞い上がってしまったので、手からこぼれていったのだ。



 これが王様や貴族階級なら、全く違った対処ができたと思われる。むしろ怖いくらいに有効活用しただろう。(願った内容によっては宇宙のバランスを壊すかもだが)

 誤解のないように念を押すと、筆者は「貧乏人は金持ちになるな」と言ってるのではない。できればたとえ少しでも「その金を得るのにある程度の学びや努力を費やしたという土台の上で」大金をつかんでほしいと言っているのだ。でないと、素人が握力も基礎体力もないのに反動の強い大型拳銃を撃つようなことになるよ、と注意を喚起したいだけだ。

 庶民は皆、宝くじに夢を見ているが、ただ運と「クジ売り場に足を運ぶという努力だけ」で得てしまう億のカネは、逆にあなたの人生をたいへんにしますよ。

 あなたが、心の声に耳を傾ける人なら、分かるはず。これくらいが、自分の人生シナリオにおける「分相応」だということが。表面的に金持ちか成功したかとかでなく、この「身の丈に合った選択をする」ということのほうが幸せになりやすい。



 イエス・キリストは上記の言葉で持たざる者を悪く言ったのではない。

 お金をもつ流れになる人にはそれなりの生き方があり、なくてもそれなりの幸せのなり方がある。それなのに、自分にないものを「隣の芝生は青い」的にうらやましがり、自分もと分相応を超えようとする時問題が起きるよ、ということを言いたいだけの言葉だ。

 だから、イエスの言葉には補足がいる。持っていない人は持っていると思っているものさえ取り上げられるという言葉は、次のように言い換えよう。



●持っていない者が、その器ではないのに持ってる者のようになろうとすると、逆にうまくいかず取られてしまう結果になるだろう。



→ だから貧乏マインドをもった貧乏人が一攫千金など狙わず、堅実に稼いだ方が身のためだよ!




【編集後記】


※新堂冬樹氏の『三億を護れ!』という小説が面白いです。今回扱ったテーマの理解の助けになります。

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