なぜ神は人に失敗する可能性を与えたか

●主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。主なる神は人に命じて言われた。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」



 【創世記 2章15~17節】



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 安倍元首相を銃撃した山上容疑者を主人公に据えた映画の上映が、物議を醸している。これに対して、二人の有名人がまったく反対の意見を表明している。歌手の世良公則氏はそんなものが上映されることに対して、ゆるされるべきではないと警鐘を鳴らし、一方で国際政治学者の三浦瑠麗氏はその逆に「封殺されるべきではない」と主張している。

 悟りやスピリチュアルとは関係なく筆者一個人の意見を言えば、後者に賛成である。三浦氏は普段の言動は納得できないものが多いが、ここだけは珍しく同意だ。



 旧約聖書で、神はエデンの園になぜか「食べてはいけないもの」を置く。結果論になるが、人間は(蛇が悪かったにせよ)食べてはいけない実を食べる選択をし、失敗してしまった。

 思考レベルが浅いと、このお話に関してどんなことを考えてしまうかというと、次のような理屈だ。



●神は全知全能なんだから、最初から食べたらいけないようなものを「置かなければよかった」。それなら、最初から人間が間違う可能性もなく世界は平和だった。



 エデンの園の失楽園の物語は、実際にあったことではなく、この世界の根本を比喩として示したものだ。

 もし、神(この宇宙のクリエイター)が、最初から失敗する可能性を人間に与えなかったとしたら? 

 人間はロボットになる。間違わないかもしれないが、喜怒哀楽も感情もなく、ただきっちり生きるだけの存在となる。

 神が善悪知る木の実を、人間のそばに置いたのは子どもを愛していないからではない。失敗して死んでもいいと思っているわけではない。



●そういうものがそばにあっても、選び取らない者になってほしい。



 この世界は、対になる二つの極概念の間を様々に揺れる世界(二元性世界)である。長い短い、熱い寒い、重い軽い。光と影、男と女、つまり陰と陽。

 そういう相対概念がある世界では、当然成功と失敗、言いつけを守ると守らないという相対的結果の違いが生じる。

 喜怒哀楽と言うのは、相対(比較)概念のあるところにしか生じない。さらに言えば幸せとか愛とかいうものも、それがある世界でしか味わえない。

 だから私たちは生き甲斐のある、チャレンジし甲斐のあるこの世界を楽しみたければ「必ず願ったこととは逆の可能性とも隣り合わせ」となることに同意せねばならない。まぁ最近は「そもそもこんな世界に生まれてこなきゃよかった」なんて考える哲学もあるらしいが。

 ゆえにこの世界での成功と言えるものは「本心が望まない選択を退け、自分が本当に幸せになれるための選択をすること」である。それを達成しようと人は生きている。ただ、表面的な他者から見て分かりやすい成功(お金持ち・成功者になる)を得るために、本心の望みにあえて目をつぶる選択をする人間もいるが、それは間違いなく不幸街道まっしぐらである。本人はよう分かっとらんと思うがね。

 だから、人がこの世界において「選択を誤る」ことは悲しいことだが、それでも誤る可能性を無くすわけにはいかない。殺人事件や強盗事件が起きてはいけないから、世界中から刃物を無くすのは現実的ではないだろう。刃物があっても、人間側が「刃物本来の使い方をし、人を傷付けるという本来の用途ではないことでは使わない」という選択をすればいいだけのことである。



 人間の真価が発揮されるのは、間違える可能性のない安全平和な(でも平和というものもその逆がないと認識できないから平和すらない世界)世界ではなく——



●過ちを犯す可能性が常に隣り合わせにある状況にさらされ続けながらも、人生の最後までトータルとして「幸せな人生だった」と思えるように選択し続けること。



 その意味で、世良公則の言うように「こんな映画の登場はゆるしてはいけない」というのは、もし実現すればそれは人類の退化である。人は愚かな精神お子ちゃまだということを認めることになる。さぁぼっちゃま、刃物は危ないんで近寄らないでくだちゃいね、万が一にも手や体にお傷が付いてはいけませんからね!

 映画の監督が元赤軍だとか、そこを問題視する人もいるが、この世界は法治国家ですぞ? 国が彼を自由にしているなら、映画が自由に撮れて公開できるのを放っているなら、それは法的に問題ないからだ。権利としてできることをやっているだけで、そのどこを責める? 危険だと言うなら、ムショ帰りの前科者は怖い(また過ちを犯す可能性がある)から雇うな、って言うのかい?

 この世界は法に触れない限り自由という建前だから、その範囲で何をしてもそれは国民として飲み込まないといけない。ただ、あなたにも自由があり、たとえそれが公開されても見ない、という選択ができる。それをしてればよいだけのこと。

 あと、こんなに短期間でできた映画にちゃんとした内容なんてあるわけない、大したことないという話をする人。そういう人は「今話している大事な論点が何かつかめない人か、あるいはすぐ忘れて別の話をしてしまう人」であることを露呈している。今議論すべきはそこじゃないんだよ。一件理があるようだが、まったく的外れな意見である。



 人類始祖のアダムとイヴは、蛇にそそのかされて食べちゃいけない実を食べた。

 私たちも、この過度な情報社会の中で様々な情報(蛇)に惑わされがちである。でも、人類始祖の過ちを繰り返さないように自分軸をもって対処したいものだ。

 人類が鍛えられ成長できる機会というのは、間違える可能性を排して達成されるものではない。そんな楽な状況で成長も何もない。様々な選択肢が目の前にありながらも、あなたが「本当によいと思うもの」を選び取り続けていく先にこそ、成長と喜びがある。

 上映くらいさせてやれよ。その結果人が集まらなかったら「ほらね」と言ってやりゃいいんだ。そもそも世に登場させるな、というのは一見よい考えのようで、実は人類の成長の芽を摘む怖い考え方なのだ。

 悪とは、なくすものではない。PCのハードディスクに保存されている情報のようなものだ。削除は不可能だが、使用者であるあなたがそのデータを閲覧しない(モニター上に引っ張り上げない)ようにすれば何の問題もない。それこそが平和だ。



●真の平和とは、悪の可能性がゼロになる世界ではない。いつ何時でもそれを選び取れる状況がありながらも、皆がそうしない選択を取り続けられる世界のことであり、そっちを目指すべきなのである。

 たとえ良いことでも、「排除」という考え方からは何の良いものも生まれない。

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