しるしと不思議 ~偽預言者って誰?~
そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。
【マタイによる福音書 24:23-24 】
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ここを読み解くには、ほとんどの人が持っていないであろうある考え方の前提が要る。偽預言者というものが本当にいるのかどうかである。角度を変えれば、本物の預言者というものがいるのかどうか、という見方もできる。
八百屋、というのは野菜を売っているお店である。
普通は、そのように認識するものでありそれ以上でもそれ以下でもない。
ただ、特定の野菜が大嫌いな子どもがいて、母親が好き嫌いを矯正しようとあの手この手で食べさせてこようとするのを愛情とは思えず、その野菜を親が買う先の店を『悪魔のお店』と嫌うこともあるだろう。
あるいは、その店主個人と人間関係のあった者で、店主に個人的恨みがあったらやはりその店を嫌うだろう。絶対利用しようとは思わないだろう。
聖書に書いてあることだから絶対、なんてことはないと本書ではずっと言ってきた。ここでも、たとえイエスの言葉であっても同じことが言える。
●本物の預言者、本物のメシアはいない。
ただ、特定の個人にとってそう思える者なら出てくるが、必ずしも人類全員が納得する正真正銘と世が認める者は出ない。
同じことで、純粋な『100%偽者』というものもいない。
その言動により好き嫌いが激しく分かれるが、好きな人は好きで、中には人生救われたと思える人も出てくる。ニセという言葉は、人類全体にとって益とならない偽者のことを言うのではなく、ある人にとっては救いだが別の人にとっては憎むべき対象になってしまうという人のことである。
皆さん、上記の私の文章を読んで気付かれましたか?
本物の預言者の説明と、偽預言者との説明が、ちょっとばかり言葉を変えただけで、ほとんど同じことを言っていることに!
●実は、本当の預言者と偽預言者との間に大きな違いはない。
嫌われるかもしれないが、言いましょう。
メシアとか偽メシアとか、本物の預言者とか偽預言者とか、そんな区別は忘れましょう! 考えるだけ無意味と思ってください。
人は、自分の見たいようにしかものを見ない生き物です。見たいものしか見ない結果、これだけ問題のあるカルト・新興宗教が乱立しそれなりにやっていけてるのです! いくら我々が「キモい」「信じられない」と思ったところで、心酔してお金を喜んで捧げる人がいるからそこは成り立っているんです。
●見たいものを見、信じたいように信じる人間風情に本物・偽者を語る資格はない。
結局、その人物の人生経験や生い立ちなんですよ。どのようにその宗教やスピリチュアルと関わってしまったか、なんですよ。状況によっちゃ救われた、と有難がる人もでるでしょうし、そんな宗教に親や子どもを取られた家族からしたら「憎い対象」となるでしょうね。だから、絶対的定義として「本物」「ニセ」を考えることはこの地球次元程度の話ではさほど意味がないのです!
結局、それが今の自分にとって利益になるかならないか、損か得かだけなんです! 本物偽者ってのは格好つけて考えているだけで、実はおのれが利すればほとんどの人は何だっていいんです!
話を戻すが、偽預言者とは『メディアに出てある一定以上の知名度を得、何かを「正しい教え」として広め多くの支持者をもつ有名人スピリチュアル指導者全員』である。
正しい教え、と言った部分を「正しい情報」と言い換えてもいい。陰謀論など、真偽のほどが疑わしい情報でも正しいとして発信している指導者もおり、ファンは盲目的に信じる構図も出来上がっている。
こう言うと反感を持つ人もいるだろうが、逆に偽預言者でない人を探すほうが難しいくらいである。偽預言者とは、そう悪い意味で考えないでいい。
【偽預言者がそう悪いものではない理由】
①それに触れる全員を幸せにはしないが、ある一定数は幸せにする力がある。選ぶ側に知恵と鑑定眼さえあれば、そう害は受けない。
②詐欺(野心を持った確信犯)とは違い、その人なりに全力で一生懸命である。
偽預言者っていう言葉が悪いよね! 大昔の特撮作品「ウルトラマン」(初代)にはニセウルトラマンとかいうのが出てくるが、あれなんか目が吊り上がっていていかにも「悪そう」なキャラデザインにしている。ニセ、とは悪いイメージを持つ言葉なのだ。
逆に、この世界に「ニセ」でない者はないのだ。どんな優れものでも、人類100%の信頼を得るものは未来永劫出てこない。すべて、誰かにとっては良く誰かにとってはそうでない、という視点が存在し続けるだけである。
イエス・キリストだっていまだにすべての人が「メシアであった」ことを認めてはいない。信者には悪いがキリスト教だって、絶対ではなく数多ある考え方・生き方の選択のひとつに過ぎないのだ。いい悪い、正しい正しくないではなく「自分にとってどうなのか」だけが大事なのだ。
その視点からは本物か偽かなどどうでもいい議論で、今ここであなたが心から「いい」と思えるなら、それでいいのではないか。
最後にひとつ。
偽預言者はしるしと不思議を行う、とある。これは、何かイエスのように病人を治しちゃったり死人を生き返らせちゃったり、ということと考えないほうがいい。
●資本主義社会にとって最大の魅力なのは、人生における成功である。
しるしと不思議とは、この世的な実績を指す。
だから、偽預言者のしるしと不思議と言うのは「こうやって人生成功しましたぁ! 幸せをつかみましたぁ!」という実績である。本が何冊出て、何十万部売れて、メディアにも取り上げられて、というのが一番分かりやすい。
この社会では、そういうやつのほうが人はついていく気になりやすい。スピリチュアルの入門者がいい本はないかと探す時に、まずアマゾンで売り上げナンバーワンから順に見ていくのも、そういうことだろう。
別に、それが悪いことだという気はない。ただそのやり方だと、遠回りするだろうなぁって。あなたにとって本当にフィットする考え方に出会えるまでには、紆余曲折をかなり通過するんだろうなぁって思うだけである。
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