作品完結後に追加された記事
剣を投げ込むひろゆき ~時代の寵児の正体~
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させる ために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、 自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、 自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、 かえってそれを得るのである。」
【マタイによる福音書 10章34~39節】
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今、『ひろゆき』という人物の言説がネットニュースなどでよく取り上げられている。基本フランスに住んでいて、TV番組のコメンテーターとしてリモートで参加しているのを何度か見た。
彼がコメントする内容に関しては、賛否両論だ。万民に好かれるタイプではなく、嫌いな人はとことん嫌いみたいだ。でも本人はそんなこと気にする風もなく、言いたいことを言い放ち飄々としている。こう書いていると、なんだか筆者自身のことのように思えてくる。
ひろゆき氏は、発言の中でしょっちゅう『頭の悪い人』という単語を使う。
ひろゆきがキライな人は、そこに引っ掛かりを覚える人も少なくないようだ。確かに、字面だけみればちょっと失礼な印象は受ける。
筆者なりに、ひろゆきの言う頭の悪い人とはどういう人を指すのかその定義を考えてみた。
●話からその個人が受けた印象や感想(言い方が悪いとか、もしかして自分のこと頭が悪いと言ってるのかと思えてムッとしたとか)をとりあえず脇へ置いておいて、その話によって自分の視点を検証し、必要であれば変えて自分への養分する、ということがくだらないプライドが邪魔してできない人。
好きとか嫌いとか失礼とか、話の入り口でつまづいてその奥にある果実にたどり着けないもったいない人。
よくよくひろゆき氏の言っていることを読み込んでいくと、そりゃ真理だよねなんて思える内容はあまりない。
ないが、じゃあ何がいいのかと言うと「ひろゆき本人は自分の言っていることが正しいかどうかなどおそらく気にもかけてない。ただ、人々に考えさせるきっかけを与えている点」。
人間とは弱い存在で、分かりやすい心地よさに直結しない限り重い腰を上げて「自分を変えよう」とはなかなか思わない。それが自分の欠点をあぶりだしにされるような居心地の悪さをもたらすなら、なおさらのことだ。
ただでさえ人はそう自分の足りないところを変えようとしないのだから、自分を見つめなおすなんて作業はよほどできた人でないと独力ではしない。だからひろゆき氏は親切にも「あなた自分ではできないでしょ? だから僕が考えるきっかけをあげましょうね」なのである。
結論として、ひろゆき氏の言うことは正解でもなんでもなく「僕はこうなんですけど、あなたたちも自分の考えを改めてチェックしておいたほうがいいですよ」という問題提起なのだ。
イエス・キリストは聖書の中で「私は剣を投げ込むために来た」と言っている。
この部分は、字面通り捉えることで大勢の人が誤解する箇所であろう。
筆者は、イエス・キリストもひろゆき氏もある点が共通していると思う。
●イエスは、真理を語ろうとしたんじゃない。
ひろゆき氏と同じで、自分を変えようとしないくせに成功や幸せだけ欲しいという図々しい人たちに、たとえ痛みを伴うとしても自分を変えていけるような内容を語った。言わば「意図的に相手に考えさせる」内容をあえて狙って言った。
相手が無視せずこちらが言ったことに注目させる手っ取り早い手段は、相手を怒らせることだ。
イエスの言葉も、よく読めば独善的で断定的なところも多い。信者はイエス大好きフィルターがかかっているので言ってもどうにもならないが! たとえば助けを求めてくるある異邦人の女に対して「私はユダヤの人間にだけ仕えるように定められている。だから子供たちのためのパンを犬に与えるのはよくない」という発言をしている。クリスチャンの間では信仰が試される美しい話のように思われているが、冷静に考えたらひどい話だ。
金持ちの青年がイエスのもとに訪ねて来て、私はユダヤ教の教えはすべてちゃんと守ってます、この上何をしたらいいでしょうと聞きに来た。その彼にイエスは、「全財産貧しい人にあげてついてこい」と言った。
もしあなたがそう言われたらどうします? 言われた通りにします?
筆者は、これはイエスが信仰を試した、あるいは「ついていく」と言ってほしかったということではないと思っている。イエスはうっとおしいこの男に二度とかかわらなくていいよう「二度とイエスに会いたいとは思わないようなこと」をわざと言ったのだ、と。こう言えば二度と来んやろ、と。
ひろゆき氏は他人にどう思われるか、どう見えるかということについて超人的に気にしない人なので、不当な評価も多い。でも少なくとも筆者は評価している。
●正しいことを言うよりも、考えようとしない人に考えさせる起爆剤を与えようとしている点を評価する。あえて汚れ役を引き受けてでも、人々に重い腰を上げ普段確認しないような自分の意識の底を探らせようとしている点。
すでに故人ではあるが、非二元スピリチュアルにおける伝説的覚醒者に『無明庵EO』という人物がいる。
彼は、人を怒らせることで有名である。自分はスピリチュアルが分かっている、どれコイツのレベルのほどを見てやろうと道場破り的に訪ねてくる大学教授やスピリチュアル指導者たちに、まずその人物が気にしているであろうことを真っ先に考えて、そこを突くということをしていたらしい。
毛髪が乏しい人にはハゲ、自分は頭がいいと思っているようなインテリ風な人には「アホ」「頭悪そう」と言うのが効果的。
そこで「なんと失礼な! 帰らせていただきます」と、来るだけ損したと思って帰っていくのである。EOとは失礼な奴という実に価値のない情報だけを収穫に。
EOが限られた人生の時間を割いてでも相手にしたいのは、失礼な言葉を相手に投げかけた時に「ほほう! 私がバカとおっしゃるなら、それはどういうところで判断されたのか、参考までにじっくりお聞きしたい」と言ってくるようなやつだ。
要するに、言われたことの表面に反応して我を失うのではなく、その奥にある「宝」を見据えられる人間と対話するのが楽しいのだ。そのレベルの人間なら、孤高な自分の退屈を少しは慰めてくれる、ということだろう。
イエス・キリストの「剣を投げ込みに来た」「親兄弟、友人と仲たがいさせるために来た」というのは次の意味になる。
●あんた、ほんとうにそのままでいいの? というメッセージ。
あなた自身、そして周囲との人間関係。本当に何も見直さなくて大丈夫?
面倒や苦痛は生じちゃうかもだけど、より良く生きるために改善してみたら?
耳が痛いかもしれないけど、あなたと巡りめぐって他人のためにもなることだから、いっそ自分の考え方のクセの
また「 自分の十字架を担え」「自分の命を得ようとする者はそれを失う」という言葉の解釈としては——
●自分のくだらない面子(プライド)のために、自分がバカにされたり間違いを指摘されたら怒ったりしていたら、成長しない。人として成長が止まるということは、命を失うのに等しい。生きているとは名ばかりであるから。
逆に自分のプライドをかなぐり捨ててでも、他人の言葉で「自分は本当に変わらなきゃ」と思えるなら(十字架を担うということに相当する)、その者は大きく成長する。命を得る、ということになる。
要するに、平たくは「悪く言われたくなくて、自分の嫌なところに向き合いたくなくてヘンに自分を守るとかすると死んでいるようなもんだよ。でもそれをする勇気を持てたら、あんたなかなかのもんだよ」ということだ。
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