イエスが示したのは無条件の愛なんかじゃない
芥川龍之介作の有名な短編小説、『蜘蛛の糸』。
今日は、このお話を題材に「無常件の愛などというものがあるのか。イエスと釈迦は実際にそれが持てていたのか」に迫ってみたい。
釈迦と並んで称せられる偉大な人物に、イエス・キリストがいる。
「聖★お兄さん」というマンガ(アニメ化・実写映画化まで果たした)でも、良いコンビぶりを見せるこの二人。
イエスは、無実の罪で十字架にかかり、それでもすべての人をゆるすことで、救いの道を開いたと言われる。それが「キリスト教」の始まりで、イエスを神の子・救い主として受け入れた者は救われる。と説く。(それは裏返せば、信じないと救われない、というか地獄に落ちるということでもある)
イエスが世に示したのは、よく『無条件の愛』であると表現される。
世からひどい仕打ちを受けたが、それでも無条件にゆるした、というところ。だからイエスの愛に心打たれた者は、『~したら~してやる、という条件付きの愛ではなく、イエス様のように条件を付けないで与える者・愛せる者となろう!』ということを言う。
では、この小説の中の釈迦はどうか。
芥川は釈迦を良く知っていたはずはないが、(いくら研究しても実際に会わないなら五十歩百歩)まぁそこはいい。今日はお遊び頭脳パズルのような記事だから。
無条件の愛、とやらを与えているだろうか?
だって、歴史上イエスと並んで最も精神性が高い人物とされているんだから、イエスと同じことができないはずないだろう?
まず、次の一点に注目。
●主人公のカンダタは地上で悪党であったが、蜘蛛を踏みかけて思いとどまったことがあった。そのことを思いだしたお釈迦様は、カンダタを救いだしてやろうと蜘蛛の糸を垂らす。
『蜘蛛を踏まなかった』という条件をもって、カンダタを救おうとしている。
救おうとするのはお釈迦様の愛だろうが、それはカンダタがかつて善行をしたことを条件にしており、もっと言えば「根っからの悪党ではない → 更生の見込みあり」だから助けた。
お釈迦様のやったことは、普通の人間と同じである。我々の社会でも、才能を必要とする特殊技術(芸術・芸能・ものづくり)などは、見込みのある者にのみ教えたいと思うものだ。
天国人として生きる見込みがなければ、救い上げないのだろう。
どうも、天上人は無条件の愛を持っていないらしい。休むことなく地獄から人を救い上げ、天上界が野戦病院のような状態になってでも皆で暮らそう、とする気概もないらしい。
もし反論として「天上は愛の世界にできているので、そこで暮らせるには愛がある程度完成されていないといけない。でないと、魚が陸に打ちあげられて呼吸ができず死ぬように、むやみに地獄の者を救っても天上では生きていけないのだ」 という意見の者もいるだろう。
これは言い換えれば、「救い上げないことが逆に配慮であり、愛」。つまり「愛には責任が伴う」ということであろう。
自分で何とかするしかないわけだ。他人が何かしてやれる領域ではない。
他人の代わりにごはんを食べてあげられない。代わりにトイレに行ってやることはできない。
まったくその通りだ。筆者に異論はない。
●愛には、責任が伴う。
責任の伴わない愛などに、意味はない。
よって、無条件という名の、相手の責任を一切問わないその危険極まりない愛は、くだらない。それは、ただの「甘やかし」である。
そもそも、この次元世界に「無条件の愛」など存在しない。
イエスが十字架ですべてをゆるしたことは、本当に「無条件の愛」 だったかどうか考えよう。
一見、無条件に見える。しかし、彼がそのような愛を世界に示したことによって、結果世界はどうなったか?
その十字架物語を耳にする者に、「イエスはこうした。では、あなたはどうか?」を問うのだ。その問いが究極には、キリスト教となった。
イエスと同じ人間として、やろうと思えば同じ選択をできる存在として、ではあなたはどう生きるのか? を自問自答しなければならなくなる。無条件の愛の物語を知ってしまうことで、自動的にその人物に「責任」が生じるのだ。
結局、イエスのしたことは「あなたも愛に生きろ」と間接的に迫ることとなった。
「無条件の愛に生きろ」と、無条件であることを人に薦める・押しつけるという笑える話になった。そもそも無条件の愛には、『無条件でないといけない』という条件があるわけだ。
結局、蜘蛛の糸に登場するお釈迦様はどういう基準で行動しているかというと、条件を検討して何かをするかどうか決めている、ということだ。無条件にゆるしたりする気はないらしい。
無条件にゆるす気なら、孫悟空の乗る雲みたいな「天上タクシー」を、送迎に出せばいいのだ。それだと落ちる心配もないし、他の者が勝手についてくる心配もない。
まぁ、そのような特殊な力もないらしいので(蜘蛛の糸が精一杯)、仕方ないか!
でも、こう考えることもできる。
お釈迦様は決して力がなかったわけではなく、あえて弱弱しく見える蜘蛛の糸にしたのだ、と。
(カンダタがエゴを動機に叫びさえしなければ、イナバ物置のように100人乗っても大丈夫! な構造になっていた)
つまり、一種の資格試験的な要素もあった。カンダタが自分だけの安全や得を考えず、皆で登ろう(たとえ糸が切れる恐れはあっても)とすることを、期待したものと思われる。
そう考えるには理由がある。お釈迦様はバカではないので、もし極楽へ通じる糸なんて垂らしたら、カンダタ以外の人間も気付けば飛びついてくることくらい、想定できたはずだから。
「ウワッ、何これ! 他のみんなも登ってきちゃったよ! これはマズいなぁ……」 じゃ、釈迦は愚かすぎる。
だからやっぱり、すべては意図的(確信犯)だったと考えるべきである。
釈迦がカンダタに、「他の者も大事にできる慈悲の心」を持てるか、という試練を課したのだとするならば、それは端的にこの世界次元で生きることは結局何か、を教えてくれる。
●諸行無常・有限な世界を生きるということ。
そこでは、必ず「条件」というものが発生し、選択の責任が問われる。
好き嫌いに関係なく、この世界とはそうしたものなのである。
「すべて条件付き」という言い方をすると、この世界は何だか生き辛い世界、苦しい世界と感じてしまいやすいが、実は何でも条件付きのこの世界は、かえって生きがいがある。ゲームと同じで、楽しい。
楽しいとはいえ、ゲームである以上、相対的評価に過ぎないが「勝ち負け」「スコア」という価値評価が生じる。たとえば人生が「幸せであったか」とか、どんな実績(成果・名声)をあげたか、とか。
そんなものに究極意味はないが、それでもそういう条件を競うことは、この世次元では興味深いことなのである。またワンネスであり、完全であり、問題のないプレイヤー意識には、願ってもない「余興」でもあるのだ。
この次元世界で生きる以上、無条件の愛などは絵に描いた餅。
そんなものがあると思って、目指して生きるのは自由だが、他人を巻き込まないでくれよ。
筆者は、条件や責任というものから逃げられないこの世界を、逆に祝福だと思うことにする。だから、緊張感もあって、やり込み度も高く、面白れぇんだ。
イエスが十字架上で示した愛も、「お前ら、これを見て何か感じただろ?」ということをイヤでも考えさせるようになっている。で、結局イエスを知った者は自分が彼の生き様をどう扱うかを迫られる。イエスを尊敬し、彼のように生きるのか。それとも無視するのか——
これのどこが、無条件な愛だというのだ。
だから、知るということは一種の「呪い」でもある。
オレにはムリ! 無視無視! と思っても、イエスの生き様を知ってしまった以上、あなたの自意識とは関係のないところで、それを基準にあなたの行動がジャッジされる。で、自動的に突きつけられる。
それをいちいち封じ込めたり考えないようにしたりする努力が要るが、決して伸び伸びとした「幸せ」な精神状態でいることは難しくなる。
ゆえに、百歩譲ってイエスの示した愛が「無条件の愛」だったとしても、それは長生きできないということは言える。線香花火並の寿命しかない。
ある人物が無条件の愛を持ててもそれは一瞬で、他者に観察されたり伝わったりした瞬間、その寿命は終わる。条件付きのものに早変わりするのだ。
で、それが悲しいことではなく、それでいいじゃん、ということ。
レッツ・エンジョイ・条件付き世界!
その中でどう生き抜くか。幸せだったと思える人生を築き上げるか?
それこそが、楽しい。
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