【最終回】ちょっととんでもないキリストの話 


 ここからする話は、結構とんでもない。

 イエス・キリストについて「全然知らへん!」という方には刺激は少ないだろうが、彼について少しでも「一般的なお話」を知っている人には、信じがたい話をする。さぁ、聞く心の準備はできたか?



 キリスト教では、イエスは十字架にかかることが最初からの使命であったという。

 元から決められていたことであり、避けられなかった、と。

 だからイエスは、すべての民の罪を背負って、身代わりとなって死ぬことを見据えて、そのために準備をしてきた。彼の生前にしたことは、すべてそのためだった。

 だから、弟子に裏切られ逮捕された時も、覚悟はできていた。

 人間としての肉体、心を持つがゆえに、神の子といえど一瞬は肉体的苦痛と心の辛さから——



「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という意味)

 と叫んだ。



【マタイによる福音書 27章46節】



 でもイエスは、そもそもの自分の使命を忘れてはいなかった。

 一瞬の気の迷いを振り払ったイエスは、最後は迫害する者と全人類のために祈り、絶命。復活を果たし、見事人類に救いの道を開いた。

 ……以上が、世界的に通用するイエスの十字架に対する認識である。 

 今日は、これを大々的にひっくり返す。



 まずは、このお話のツッコミ所から。

 イエスは、キング・オブ・マスター(覚醒者中の覚醒者)と言われている。

 そのくらい「すごい」人間力のある人がですよ。

 苦しい、ったって自分が命がけで守ってきたものをそう簡単に捨てますかね?

 かつて、キリシタンと呼ばれた日本のキリスト信者は、豊臣秀吉や徳川幕府から迫害され、踏み絵をしないと、棄教しないとひどい目に遭わされた。でも、彼らは堂々と神をほめたたえながら、惨殺され火あぶりにされ、拷問でも教えを捨てなかった。信じるところを守り通した。

 なのによ? 遠い異国の日本人信者が頑張りを見せられるのに、救世主イエス自身が苦しいからって「神様は自分を捨てたのか?」なんて揺らぎますか? いいや、それはおかしい。

 私はそこに気付いた時から、この世界的に常識になっているこのお話はどこかおかしい、と思っていた。で、今日、自分に与えられたひとつのシナリオの形となったので、そのとんでもないお話を紹介する。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 イエスは、あるきっかけで「意識を柔軟に操るすべ」 に目覚めた。

 そうか。思い込みを捨て切れば、純粋に信じれば。ただ、意識の在り方次第で常識的にどうにもならないと思えることすら、変えることが可能なんだと理解した。

 その日から、イエスは面白くって仕方がなくなった。

 何だって、思い通りにいくのである。

 病人を治せる。死人だって生き返らせることができる。

 言わば、現代において引き寄せの本を出した人物など足元にも及ばないほど、引き寄せの達人になった。彼は、とても信じられないような『奇跡』を数多く起こし、世間をあっと言わせた。

 そのせいで弟子入り志願者が殺到した。一躍時の人となり、その土地の王ですら、「イエスに人気を取られ王の座も奪われかねない」と心配したほどである。

 イエスがお金に執着しなかったのは、彼の中での「重要度ランキング」が異様に低かったから。その辺主人があまりにテキトーなので、その分弟子たちが金にがめつくなった。

 結婚しなかったのは、二つ理由がある。ひとつは、こんな人気者が、一人の女性に一番近しい女性という「妻」の座を与えたら、その集団の中でどんなもめ事が起こるか……分かるでしょ?

 私はかつてある新興宗教にいたが、教祖が結婚する、という時どれだけ大変なことが信者内部(特に女性の間)で起こったかを知っている。それと同じ。

 もうひとつは、単に時間がなかった。

 イエスが自分を救世主だと明らかに理解して行動したのが、十字架刑までの三年間だと言われている。これは聖書の記述から単純に割り出したもので、何ら証拠も裏付けもない。

 私は、実は一年もなかったのではないかと思う。

 だから、世間で言われるようにマグダラのマリアと何かあったとしても、毎日のように起こる劇的な出来事の連続で、結婚してる余裕などなかった。



 ちょっと信じて疑わずに意識すれば、事態が好転する。

 死人を生き返らせ、少しのパンを五千人分にも増やし、悪霊に挑めば楽勝で——

 彼にできないことはほぼなかった。彼の前に敵は在り得なかった。

 彼は権力には興味がなかったが、かといって人の顔色を見てへいこらするのは嫌だった。

 だから、積極的に世界を支配しようとはしなかったが、降りかかる火の粉は払うつもりでいた。つまり、相手が邪魔立てしすぎるなら、奇跡を起こせる自分には何とでもできる、という自信があったのだ。

 例え千や万の軍隊が来ても、彼ひとりにはかなわない。

 自然万物が彼の味方なのだ。嵐をしかればおさまり、大波をしかれば凪になった。

 水面の上を歩く、ということまでした。実のならない木をしかったら、一瞬で枯れもした。

 


 いよいよ、イエスをやっかむエルサレムの権力側の攻撃がマジ(本気)になってきた頃のこと。

 イエスは「やれやれ面倒だな、どれ、もう邪魔できないように決着をつけようか?」と考えた。

 国家権力といえど、意識の力で森羅万象を自在に操る(創造する)イエスの敵ではなかった。だから、彼はエルサレム行きを決意したのだ。

 一般的な理解では、いよいよ首都エルサレムで十字架刑に処せられ、万民の救いの道を開くために犠牲になる決意をして、エルサレム行きを決め弟子にもそう言ったことになっている。

 でも、イエス自身は——



●死ぬ気などなかった。

 むしろ、勝つ気でいた。

 だから、人生の終着地がエルサレムだなどとは考えてもおらず——

 面倒事を解決するためだけに、立ち寄ったのだ。



 エルサレムに入ってからの彼は、死ぬ気はないのだから悲壮感もなく、平常心バリバリ。そこでも人助けをし、とんちで権力側の人間をやりこめるなど、とても「死を前にした、死を覚悟した」とは思えないような、ユーモラスで型破りな行動ばかりしている。

 敵が槍を持ってこようが弓を持ってこようが、負けない自信があった。

 何たって自分には、神の力で奇跡を起こす力があるんだからね!

 そのゆえの余裕である。

 しかし、ちょっと気になることがあった。

 12弟子のひとり、ユダが最近挙動不審なのだ。山口さんちのツトム君なみに、「この頃少し変よ~どうしたの~か~な~」状態だった。

 ……そう言えばコイツ、やたら地位とか名誉とかカネにこだわるやつだったなぁ。

 もしかしたら、そんなものに頓着しないオレに納得いってないのかな?

 その辺の鈍さは、明智光秀にやられた織田信長と似たり寄ったりだ。



●聖書が描いているように——

 イエスがユダの裏切りを知っていた、ということはない。



 だから、ゲッセマネという場所でユダが現れた時、イエスは——

「おお、ユダじゃん。どうしたの、こんなところで?」くいらいのお気楽な感覚だった。心構えなどないから、ユダが引き連れてきた役人たち(イエスを逮捕するための)に気付いた時、ビックリしたはずである。

 でも、そのビックリも一瞬。イエスはすぐに余裕を取り戻した。



●おお、ビックリだ。

 でも、こんな人数と棒切れと剣で、果たしてオレが逮捕できるかな?



 警官に囲まれても余裕なルパン三世みたいなもので——

 絶対につかまらない自信があった。

 さて、ちょっと申しわけないが皆には意識を失っていただいて……

 彼は、お得意の意識モードに入った。願ったことは、即座にかなうはず。

 ……だった。



 アレッ!?



 イエスは、この瞬間久しく忘れていた「恐怖」を感じた。

 念じても、何も起こらないのである。

 いきなり能力が使えなくなった超能力者のように。

 突然、ほうきで空が飛べなくなった魔女の宅急便のキキちゃんのように。

 タマが入っていると思って銃の引き金を引いた人のように——

 何も起こらない。

 イエスは、混乱した。



●なんで~~~~~~~!?



 今まで何でも簡単にいったのに、なんでこのタイミングでできなくなるかな!

 イエスは、急に「弱く」なった。

 今まで当たり前にうまくいっていたことが、ゼンゼンうまくいかない。

 イエスは、大ショックだった。

 いつだって、意識の在りようで(ゼロポイントからの創造で)うまくやってきた。

 その実体験をもとに、「信じればなんだってできる。不可能はない」と人に教えてきた。でも、なんで?

 まさか神は、オレを見捨てたのか?

 裁判の声も、自分を罵倒する声も、もう彼の耳には届かない。

 ただ、「なぜ?」ばかりが頭を渦巻いた。

 うまくいっていたものが、急にできなくなる。しかも自分の生死を懸けた重要なタイミングで! 神を今まで味方(お父さん)だと思ってきたが、この仕打ちは納得できない。意地悪、としか思えない。



●神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。

 そして十字架から降りて来い。



【マタイによる福音書 27章40節】



 人々は面白がった。

 不思議な術(奇跡)を使うすごい英雄が、おとなしく縛られ脱出もできず、殺されかけようとしている。もちろん、この文脈ではイエスをバカにする意味もあるが、もっと重要なのは「群衆のとまどい」である。イエスなら、こんな状況何でもないことを知ってて、「なぜ力を使わないのか?」が意外なのである。

 あざけりの言葉というよりは、「ホント、どうしちゃったの?」という疑問である。引田天功が閉じ込められたまま、ゼンゼン脱出できない様を見る観衆の戸惑いのようなものである。

「神殿を壊し三日で建てる」というのも、例えでなく調子のいい時の彼ならできるからだろう。



 自分でさえ、整理がつかなくて、わけ分かってないのに。

 今まで教える立場だった民衆からも、「なぜ自力で降りてこない?」とツッコミを入れられ。

 うるへぇ。降りれるものなら、とっくにこんなとこオサラバしてるよ!

 でも、どうにもならないんだ。まるで君たちみたいに!

(てか、奇跡起こせないほうがフツーなんすけど)

 自分でも納得いかず、他人からもやいのやいの言われ、いたたまれなくなったイエスは、ブチ切れてついに口にした。



●「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか、という意味)

 と叫んだ。



【マタイによる福音書 27章46節】



 この話の流れでこそ、この言葉が納得いく。

 十字架刑を最初から覚悟していたのなら、覚者イエスにしては無様すぎる。

 フツーじんであっても、拷問や処刑の中でも信念を貫ける者がいる。弱音を吐かないのもいる。それを、二千年の歴史を越えて影響を与える人物・イエスができないなんて不自然だ。

 つまり、イエスにはこのタイミングで人生を終えるつもりも覚悟もなかった。

 まさかこんなことになるとは思わなかった。

 しかも、勝てると思ったケンカだからこそ、迫害者の本拠地エルサレムにも涼しい顔で入ってこれた。でも、いざ戦おうとしてみると、頼みの武器はもがれてしまった。理由は分からないが、今のイエスは奇跡を使えなくなっていた。

 イエスは、逮捕される時に言った。



●わたしが父にお願いできないとでも思うのか。

 お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。



【マタイによる福音書 26章53節】



 これは、聖書では 「やろうと思えばそうできるのだが、つかまることが使命なのでつかまってやる」 というニュアンスで書かれているが、ここでは泣き言に近い。

 マジでそうしようとしているのに、やろうと思ってもできないのだ。

 シーンとして何も起こらない。何も助けに来ない。

「いつもならできるのに、できるのに……」 そういう、落ち込みの言葉なのだ。



 イエスは、神を責めた。

 恨み言を言った。

 なぜ、なぜ?

 今までうまくいったことが、なぜ今うまくいかない?

 あなたがそっぽを向いたからか?

 神は、本当に愛なのか??



 そこで彼の 「大悟」 が来た。

 


 ……ん

 そうか!

 うまくいかないことが、普通なんだ!

 というか、宇宙では起こることが起き、ありのままで完全。

 私は、今までうまくいってきた結果、今うまくいかないことで苦しんでいる。今までを「当たり前」として、今そうでなくなったことを「マイナス」と捉えている。

 ああ、罠にかかっていたな。肉体をもつ、ってことは悟った風でも五十歩百歩だなぁ。

 今までしたり顔で、「成功哲学、引き寄せの実践」ばかり言ってきたなぁ。こうすれば、幸せになれるよ、って教えてきたなぁ。

 でも、今このような目に遭ってやっと分かった。

 宇宙はオレに、これを学ぶシナリオを与えたんだな。

 


●すべてはシナリオ。

 コントロールできる、選べる創れると思っているのは錯覚。



 だから、オレが一時期意識の在り方で何でもコントロールでき、奇跡を起こせたのも……全部決まっていたからなんだ。

 そしてオレが今こうなっているのも、神が意地悪だとかオレに問題があって奇跡の力を失ったとかではなくて、この筋書きさえも決まっていたんだ!

 何だそんなことか。

 まぁ、すげぇ映画だったな……オレの人生。



 起こることが起こる。

 イエスは、散々思い通りにいく経験をした後で、究極に思い通りにいかない体験を最後にすることで、自由意思というものがあり、それをうまく使えるようになることが幸せだという思い込みを砕かれたのである。結局自由意思など錯覚だ、と知ったのである。

 だから最後、イエスはこう言えた。



●イエスは大声で叫ばれた。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

 こう言って息を引き取られた。



【ルカによる福音書 23章 46節】



 これは、宇宙ではすべて起こることが起こる、ということに、イエスが降参(サレンダー)できた証しである。イエスは、実は十字架刑まではマスタークラスの覚者ではなく、意識は高かったが奇跡を起こす、というパフォーマンスのほうを重要視するレベルだった。

 だから、積極的に人と関わった。時にはお節介なくらい。

 病気を直し、悪霊を追い出し、可哀想と思えば死人すら蘇らせた。

 やたら、問題を問題として解決してきた。そして、そうできる力がある彼は、調子に乗り過ぎた。

 いつしかそれが当たり前になり、それがなくなった瞬間弱くなった。

 能力のせいで、あるがままにあることだけで強くなれなくなった。

 イエスは、死に際にとても重要な学びをしたのだ。

 死ぬ時に、偉大な覚醒者(マスター)になった。

 だから最後、「わが身を宇宙のシナリオにゆだねます」と言って死ねたのだ。



 以上が、クリスチャン真っ青の物語である。

 世界の常識が頭に入っていれば、ひっくり返るお話である。

 私は、ただ書き表した。

 これも、起こることが起こっている。

 あとはどんなドラマが生まれるのか。自分に。そしてこれを読んだ皆さんに。

 それを、腹を据えて見ていこうと思う。

 楽しんでみようと思う。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る