超訳・山上の説教
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』 と言って、思い悩むな。
それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
【マタイによる福音書 31~34節】
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その昔「機動戦士ガンダム」、いわゆるファーストガンダムが流行っていた頃。
ロボットアニメの華やかなりし時代に、一本の異色なロボットアニメ作品がつくられた。『太陽の牙 ダグラム』という作品である。
筆者が小学校5年生くらいの時だろうか。リアルタイムで鑑賞していたが——
●暗い。
それが、まだ幼かった私の正直な感想だった。主題歌も、水木一郎が歌いだしそうな勇ましいものではなく、泣きたくなる悲壮感漂うメロディー。
カッコイイメカを登場させて喜ばせよう、というところに主軸はなく、「独立運動」という政治色の強い骨太ドラマの物語で、ロボット戦闘パートはオマケ程度の扱いである。
地球に搾取されている殖民惑星デロイアを独立させたいゲリラ側と、資源確保のために現状維持したい地球側の対立を描いている。
このアニメの最後のオチで、デロイアは独立を勝ち取る。
しかし、それまで独立運動を最前線に立って戦ってきたメンバーのある一人は、こう叫ぶ。
●『独立って、こんなに味気ねぇものだったのかよ……』
独立は成したが、ハッピーエンドとは到底言えず、最後は象徴的にもう立ち上がることもない朽ち果てたダグラムの姿が映される。
「今はもう動かない お爺さんの時計」みたいな哀愁が漂っていた。
人間同士の戦いは、何かを生んだようで結局何も生まなかった。独立は果たしたが、それは勝ち取った一人ひとりがそれまでに心に思っていた独立とは違ったのだ。あの夢にまで見た『独立』は、実際に達成してみるとそれは全然別物であった。
このようなことは、個人の人生でも起きることである。
何かの目標を追っているうちは、幸せである。対象物に対してものすごいキラキラした夢を抱いており、そこに向かいつつある。そんな時間が、実は一番充実しているのかもしれない。
で、達成してしまった時、もちろんケースにもより個人差もあるが——
●自分が思い描いていたそれと、実際のそれとの間の落差を知ることになる。
ダグラムの例のように、あからさまに「思ったようなものでなかった」と落胆が生じる場合もあれば、それに気付きたくないので無意識の領域に封じ込め、無視する場合もある。
その場合、精神がバランスを取ろうとして「代償行為」、つまり新しい目標を探して、それを追うということを始める。次の目標で、前回の目標の達成時に「思ったほどは回収できなかった幸せ感・喜び」を回収して今度こそもとを取ろうとする。
しかし悲しいことに、その繰り返しの中、死ぬまで満足を得られることがなかったりもする。
自己啓発などでも言われることだが——
●ただ夢や目標を達成する、実現するだけでは不十分。
それよりも大事なのは、夢が叶ったあと。願望実現したその後。
「その後、どうするのか」というビジョンなしに何かを達成だけしても、役に立たないどころか逆に、あなたの幸せの邪魔になることすらある。
おそらく、このダグラムという作品でも、独立戦争をしている時は目の前の現実で手いっぱい。余計なことを考えられないほど大変なのは、戦争という状況においては仕方がない。
しかし、「独立」の達成自体ばかりに目がいき、「独立後どうしたいのか、どいうしていくのか」というビジョンがなかった。政治的力学もからむ話なので、何も好き勝手できないのは当然とはいえ、ちょっと厳しいことを言えばゲリラ側は確かに「真剣」だったが、その後のビジョンを欠いていた。独立を求めていたが、独立とは何かを考える視点がすっぽり抜けていた。
あともうひとつ、「夢がいざ叶ってしまった後に訪れる空虚感」を回避する方法。
失敗するのは、「何かの目標を見据えて突っ走っているので、そこに駆けつくまでの距離と時間、周りの景色も何も見ていない」という現象が起きるからである。
頑張ったようでいて、瞬間瞬間が空っぽなのだ。あなたの視点は常に先の「夢」にあり、今にない。今のすべては夢の実現のためにあり、真の安息と満足はその達成後にしかあり得ない。
だから、いざ目標を達成した時に、その時に得る満足がそれまでの時間を「そのためだけに捧げた」ことに釣り合わない時に、人は虚しさを感じてしまうものだ。
そしてその虚しさを埋めるために、人は反射的に次の目標に手を出す。
人はその空虚感を誤魔化すために、何かを達成したらさぁすぐに次、というのを「向上心」とか「常に進化し続ける」という美名で覆い隠そうとするが、実は褒められたものでもなんでもなく、ただの「心の穴を埋めるためだけの欲望のループ」であり「他人にはとりあえず成功し幸せだと見せておきたい、しょうもないプライド」だという場合もある。
目標をもって、それに向かって生きることは、確かにこの世で必要なことのひとつである。でもそれは、あなたの肉体を構成するあばら骨の一本程度に過ぎない、と思ってほしい。
学びは、宝は今ではなく目標達成時にある、などということはない。
真の満足や幸せは、その達成時にしかない。それ以前にだってある、という考え方は自分へのごまかし、甘え、恐れからの言い訳だという厳しい意見の人もあろう。
でも、皆が皆そういう戦い方でやっていけるわけではない。人によっては、疲れ果てる。
目標は目標として追うが、それは人生で二番目に大切なことでいい。
一番は、そういう大目標に関係ない、日常生活のこの「今」に、何を最大限に喜べるか。そのあなたの足場を確かめつつ、一歩一歩積み重ねていけば、目標が達成された時そこにどんな風景が見えても、それとは関係ないところであなたは深い安息と満足を得ることができる。
あなたに必要なのは、目標が叶った時に、その現実に「どう思わされるか」 振りまわされないように、あなたなりの「歩み」をしっかり残しておくことである。顔を上げて、遠くの目標点だけ見つめてひた走っていたのでは、あなたにはゴール地点に待っているものと張りあえるだけの材料が残っていない。
何のために? そしてそれをしたからどうなる? そういう思考は大事ではある。
でも、それ以上に大事なのは一日単位の充足である。極端には、一秒一分ごとの「生きることへのコミット」である。ここで、生きる喜びという言葉は使えない。悲しみや苦しみ、悩むことはダメという誤解をされかねないから。すべての感情体験がオッケーなのである。
最後に、福音書にあるイエス・キリストの言葉を、今日の内容に合うように超訳してみよう。
●だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
⇒だから、未来の目標の具体的達成ばかり考えて、足元をおろそかにするな。
●それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
⇒人は皆、達成することばかり頭にあって、それをどう生かすかとか、現実にどういうものかという視点から見る者は少ない。欲しい欲しい、という努力だけでは足元をすくわれる。
目標達成が大事なことは、当たり前である。誰だって分かっている。
厳しいようだがその上で、今は夢を追うことが中心でいいが、その達成後はどういう軸で生きていくのかどこかでは想定されるべきである。
●何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
⇒目標を追う努力だけでなく、「最終何のためにそれを叶えたいのか」「叶えた後どうするか」というテーマについて追い求めなさい。
そうすれば、ただ「達成したいから」で追うのに比べ戦いやすくなる。
●だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
⇒だから、願望をいかにして達成するかで悩む以上に、達成した自分とは何か、どうなるのかを悩め。
願望実現で必要な行動は、あなたが本気ならその必要な時々にインスピレーションで与えられる。
未来に取る行動で今頭を悩ませるより、時間があるなら常に今「どう在りたいのか。そして自分は、現実の状況に関係なくその在り方に近いだろうか」を確認する方が益である。
【マタイによる福音書 31~34節】 以上、筆者の超勝手な解釈
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