神についての話をしよう
今日は、『神』という存在について、整理してみたい。
時代の要請もあり、もうぼやかしたことは言わない。
読者によっては、ビックリされる方もいるかもしれない。
あんまりはっきりしたことを言うと、こういった小説投稿サイトで人気を得るにはマイナスかもしれない。でも、神についての、あまりにも根深い誤解を解くためには、今のこの時期をおいて、表明すべきタイミングは他にないと思う。
今日は、ちょっとだけ学術的な話になるのをご了承ください。
歴史を通して、様々な宗教が発生してきた。
その形態、教義は実に多種多様である。
でも、やはりその多様性の中にもひとつの『お約束ごと』があった。
それは何かというと——
●人間より優れた、超越した存在がいると考えていること。
これが、世界の宗教の普遍性である。
厳密に言えば、仏教をここに含めるのは、適切でないかもしれない。
しかしまぁ、ほとんどの宗教は、人間を超える、人間を含めこの世界を創造した『神』という存在がいる、と主張している。
ただ、それが唯一神教(絶対なる神がひとりだけ)か、多神教(神様が複数いる)かの違いがあるだけ。
前者の代表が、世界的にも名の通ったキリスト教、イスラム教である。
日本はと言えば、古事記に見られるような多神教的信仰であったが、仏教が入ってきたり、近代では西洋化に伴いキリスト教が入ってきたり。
その上、新興宗教の乱立の時代を迎え、何がなんだか分からなくなっているのが、今の日本の現状である。
では、神とは本当に『独自の意志をもった、絶対的支配者』なのだろうか?
伝統的な既成宗教は、そのように考えてきた。
「神よ……」 と祈るのは、自分の外に崇めるべき上位の存在がいる、と認識しているからだ。悪いことをすると、「バチが当たる」ということも良く言われてきた。
それもやはり、神という裁き主がいて、人間のすることを見ていて、その行いに応じた対応をする、という考え方である。
しかし、人間やこの世界を意図して創造した神、という存在がいるとしたら、説明の不可能なことが出てくる。
もし神がいるなら、なぜこのような世界を生んだ?
悪を生み、世の戦争や悲惨を止めない?
このような疑問が出てくる背後には、ひとつの考え方がある。
●神様は、完全なる愛であり、全知全能なので間違いを犯さない。
しかし。
間違いを犯さない完全な神から生まれたこの世界に、なぜ神様にない要素、すなわち「悪」が生じたのか?
これは、ニワトリがワニを生むのと同じで、あり得ないことである。
絶対に、自分のDNA情報を反映した、種から外れないものを生むはずである。
人間なら、人間を生む。カエルなら、カエルを生む。
神に悪という要素がないなら、悪は生じ得ない。
神が全能だから、つくろうと意図すれば悪が生じ得たと言うなら、あえて神がそんな選択をするだろうか? という疑問が生じる。
完全であり、全能であり、完全な愛である存在が、なぜ一生懸命悪をつくる?
次に、この疑問に答えるために引き合いに出される『自由意志』というものについて考える。
神様は、人間を間違いを犯さない、何でも言うことを聞いてくれるロボットのようにするのを望まなかった。だから、あえて『自由意志』というものを与えた。
つまり、善ではなく悪を行う可能性もそこにはある、ということである。
だって、神の意志に従って愛と善に生きる自由もあれば、それに反して悪を行う自由もあるのだから。
でも、神様は 「時空を超越した存在」 であるから、人間のように時間がたたないと物事の結果が分からない、なんてあり得ない。聖書でも言うように、「神はアルファでありオメガ、始まりであり終わりである」と言われているのだから。
人類歴史が、アダムとエバの失楽園から始まって、どんな悲惨な歴史をたどるか、神様には最初から分かっているはず。でも、それを見越していたはずの神が、自由意志を人間がもつことをゆるした。
これは、おかしな話である。
新約聖書には、神様は「99匹の羊を放っておいてでも、迷子になったたった一匹の羊を探すほどの愛の神だ」という話がのっている。
たった一匹、つまりたった一人の人間さえ苦しんだり、失われることを望まない神様ならば、なぜ人間に自由意志という危険なおもちゃを与えたのか?
その自由意志をうまく使える者もいれば、悪の誘惑に負ける者もいる。
そして、何の罪もなく真面目に生きてきた人間が、悪を行う者の行動のとばっちりを受けて不幸になったり、死んだりするという理不尽な目に遭う。
私には、たった一匹の羊を血眼になって探す神様像と、何が起こるかが分かっていて「ほらよ」とばかりに悪も善も行える自由意志を人間に与えた神様の行為とが、どうしても一致しない。
同じ神様とは思えない。
聖書は、言うに事欠いてものすごい説明をつける。
『ノアの箱舟』 である。聖書の創世期に書いてあるお話。
神様が、人間を創造したことを後悔する、というのだ!
あ、ありえない! 神様って、全知全能で完全なんでしょ!?
で、後悔した神様は何をするかというと——
大洪水を起こして、善人だったノアとその家族以外を、洪水で滅ぼすのである。
無茶苦茶である。
神様は、99匹の羊を置いておいてでも、はぐれた一匹を探すほどの方なのでは?
そう言うと、キリスト教徒はこう反論してくるかもしれない。
●それは、旧約時代の話。
まだ、イエス・キリストは来ていなかったし、当時は神様が愛の神というよりは 「厳しい父親のような裁きの神・恐れるべき神」という神観だったのだ。
だから、旧約の記事が愛の神の様子からかけ離れていても、仕方がなかったのだ。
……それは、いい訳である。
神は、いつの時代でも一貫していて、変わるはずがない。
確かに、人間のとらえ方は時代時代で変わることがあるかもしれない。
しかし、聖書の記事が実際にあったことだというなら、事実はウソをつかない。
気持はどうだったにせよ、ノアとその家族以外を洪水で滅ぼすという行為に及んだ、ということが事実なら、もうそれは神様などではない。
ノアの言うことを信じて、皆が箱舟に乗るチャンスも神は与えていた、と言うかもしれないが、全員ノアを馬鹿にして洪水を信じなかった、という結末も神には読めていたはずだ。
一匹の羊をも惜しむはずの神様は、かくして大勢を見殺しにしたのだ。
さらにもうひとつ。
今日はキリスト教を特に取り上げているが、別に恨みがあるわけではない。
世界で一番影響力があり、大勢の深層意識に影響を与えているからである。キリスト教の問題を論じることは、世界の宗教問題を論じることとイコールであると言っても過言ではないからだ。
キリスト教の教義の最大の骨は、これだ。
●父なる神は人類の罪を清算するために、罪のない我が子イエス・キリストを十字架にかけて殺し、犠牲にした。
こんな汚れた我々のために、ここまでして愛を示してくださった!
そこに、人は感動するのである。
しかし。それは人間の罪悪感につけ込んだ理論の『すり替え』である。
神は、全能の偉大な力をもつのではないか?
なぜ、自分の愛する者を殺さないと、人類が救えないのか?
そんなに、無能なのか?
皆、御子イエスを犠牲にしても人類に救いの道を開いた神をほめるが——
自分の子ども、殺してるんですよ?
無残な目に、遭わせているんですよ?
あなたが人の親なら、それ考えられますか?
ちょっと高度な理論になるが。
もし、神という絶対者が、何かを犠牲にして何かを救う、という行為を行ったら、神のすることが最高なので、それ以上のものはない。
だったら、この世界から永遠に『犠牲』というものは無くならないことになる。
どんなに時代が進化しても、何かを犠牲にしないと何かを救えない、という限界を超えられなくなるのだ。
さて。
ここまでは、神という意志を持った絶対者がいるとすればおかしい、という説明をしてきた。
では、ここからは、新時代の代案である。
こう考えれば矛盾が解ける、という神についての考えを示す。
まず、結論から。
●神はいない。
これでは、ちょっと誤解を生むので、言葉を変えよう。
●人間が考える、宗教的な絶対者としての神はいない。
確かに、神はいると考えないと、物事全て(宇宙)の始まりの説明がつかない。
原因者なしで勝手に自然に、すべてが起こるわけがない。
そういうのがいるにはいるが、我々に毛が生えたようなやつで、ちょっと上の次元にいる、という程度の存在。そいつは確かにこの宇宙を作ったかもしれないが、宗教が示すような完全で愛なる絶対者ではなく、『この世界を創って観察している科学者』に近い。要するに、我々は創造者にとって「我が子」どころか実験対象なのだ。モルモットみたいなもんで、実験のためならこの世界がどうなっても「なるほど。こうなるのか」とフムフム言うだけで、心は痛まない。
実は、この宇宙から根源者までは無数の「段階構造」になっている。
平社員の上は係長・係長の上は課長、課長の上は部長……みたいに、この世界を創った存在が宇宙の最高位ではなく、この世界を創った創造者、その創造者を創った創造者、その創造者を創った創造者を創った創造者、その創造者を創った創造者を創った創造者を創った創造者……
キリがないが、まぁ数億(もっとかもしれない)以上に上がいる。自他の区別を最低限もった存在は、無数に上がいる。
そんなもの相手にしてもしょうがないので、ここでは究極のソース(根源)に的を絞るとしよう。この世界の創造主ではなく、すべての「自他の区別をもつ存在すべての根源的エネルギー」を神と呼ぼう。
ここで、既存の宗教を引っくり返す真実が明かされる。
●神とは、あえて言えば私であり、あなたである。
そうだ。
人間自身が神だったのだ。
これで、なぜ神がいるのに悪や戦争が無くならないのか、という問いが消滅する。
だって、私たちが神だから、私たちのホンネのままの世界ができているだけだから。ゆえに、ああ神様、この世界を何とか変えてください、と祈ってもどうにもならないのである。
それを聞き届ける神など、いないのだ。
私たち自身が、この世界を創造している神自身なので、すべて自業自得なのだ。
だから、神という対象に向かって祈るのではなく、自分自身の意識と取り組めばいいのだ。
自分は、どういう人生を生きたいのか。どう喜びを追求していくのか。
どんな世界にしたいのか。
だから、今まで人類は都合の悪いことは神のせいにして、「これは神の業だ。神のみぞ知る」とか言って言い逃れしてきたが、もうそれはゆるされない。
私たち自身が、実はこの宇宙を開いた『神意識』なのだ。
人は無数の個としているように見えるが、実はもとはひとつの意識体。
これを、ワンネスと呼ぶ。
この世界から悪がなくならないのは、一元性の完全な存在が、あえてゲームを楽しくするために不完全な世界、つまり間違いが起こりうる、変化というものが存在する陰陽の二元性の世界をつくったから。
最初からそういうコンセプトでつくっているので、なくなるわけがない。
仮の話として、もし世界から悪が根絶されてしまったら、この宇宙は消滅する。
善悪 (陰陽)の二元性の世界を、テレビゲーム(架空の世界)として作った。
だから、善悪はいわばこの幻想の世界の中だけにあるものなので——
本来の一元性の神の絶対性は揺るがない。
実際につくったのではなく、ただのバーチャルゲーム。
だから悪どころか、この物理宇宙世界自体、一元性の世界からすれば「本来存在しないもの」なのだ。
人類に、あまりにも偏った価値観が染み付いてきたので、これを抜くのは大変だろう。善が良くて悪は悪い。だから、善のみを守って、悪は排除し、滅ぼさねばならない——。これこそが、間違っていたのだ。
実は、同価値なのだ。
同価値だと認めた上で、あなたはどちらを選ぶ?という話でしかない。
その選択を、他者が価値判断するべきではない。
できることはただ、あるがままを受け入れ、認めること。
そして自分自身は他者や周囲に干渉されることなく、自らの喜びに従って意思決定すること。
新時代。
人間意識で生きる時代は終わりである。
(それだってゲームなので、本当にそうなるかどうかはゲーム展開次第)
自分が無力で、ちっぽけで、罪深くて、くだらない存在だという意識を捨てる時。
神という、自分より上位の絶対的存在に救ってもらわないといけない自分、という思い込みを捨てる時。
神の子はイエス・キリスト一人のみで、あとは皆罪人、という自己卑下を捨てる時。皆が、キリストである。もっと言えば、神である。
自分とは関係のない別の、神の意識が世界をコントロールしているわけじゃない。
世界の多くの部分を、あなたのホンネがつくっているのだ。
※筆者注:「すべてをあなたが生み出している」とまで言うと、「それは100%自分原因説」となり、現在の筆者のスタンスとしてはこれは正確ではないとしている。
ある程度、あなたの意識や思い込みやものの見方が、あなたの世界を創るというのは事実だが、他者(あなたと同じゲームに接続しプレイしている幻想上の他者)の行動や選択が、あなたの意識がどうかとは関係なく色々な現象を起こし、あなたは思いがけない幸運を受けたり、逆に被害を被ったりする。
バタフライ効果、というものがこの世界の大きな特徴のひとつである。
二千年前、人類は罪意識から大いなる誤解をした。
「父(神)と私とはひとつである」
と言ったイエスは、神を冒涜するとして罪に定められた。
そして、イエスの偉大さが分かって後は、イエスだけがすごい! まさしく神の子! ということで「イエスだけが神の子で、他は違う」ということになった。
イエスによってのみ、他の皆が救われる、ということになった。
自分は悪いことばっかりする、という自己卑下からやってしまった最大の勘違い。
だから、私は神だ、なんてことを言う人がいたら、頭がおかしいと思われるのである。でもイエスが本当に言いたかったのは、自分だけが神と一体だと言いたかったのではない。あなたがたも皆、そうなんですよ! と言いたかったのだ。
だから、世界を変えたかったら、あなたのホンネを変えるしかない。
あなたが世界に絶望していて、希望を見出せないで、「どうか神様、こんな世界をお救いください」なんて祈って待つのは笑い話である。
よその神様なんて関係ない。アンタはどうしたいの? という話である。
では、本日のまとめに入ろう。
①人間を含め、この世界を創造した絶対者としての神がいるとすると、説明できないことがある。
②完全である神がいるなら、なぜこのような苦しみと悲しみ、悪の存在する世界を創ったのか?
③なぜ、今すぐにも世の悲惨や戦争を止められないのか?
④カエルの子はカエルであるように、完全な神が何かを生んだら、それもまた完全なはず。
⑤じゃあ神様は、世界をあえて完全な自分に似せず、あえて自分にない悪をつくり、認めたということ? 世界を創造する時に手を抜いた?
⑥神様は同時に、完全なる愛だ、とも言う。でも、それだとおかしいことがいっぱいである。
⑦自由意志により人間が悪を選ぶ可能性を知っておきながら、神はなぜそこに目をつぶった?
⑧愛の神が、ノアの洪水を起こして悪を一掃した? 一匹の羊も見逃さず救う神様が??
⑨愛する子、イエスを犠牲にして殺さないと、神は人類が救えなかった?
⑩つまり、そんなおかしな神などいない、と考えるしかない。
⑪でも、単に「神はいない」では、この世界の誕生の説明がつかない。原因者は、いる。でも実はそれは、私たち人間自身でもあった、ということ。
⑬だったら、神がこの世界を一気に変えない理由の説明がつく。自分のホンネどおりになっているだけ。
⑭神意識である我々は、この二元性の世界にゲームをしに来ているので、悪があって当たり前なのである。
⑮それを否定し、排除しようとするほうが気が狂っている。つまり常識の方が狂気だったのだ。
⑯陰陽のバランスというものをを認めた上で、自分はどう意思決定していくか? という楽しみがあるだけ。
⑰これからの時代、世界に起こることをもう神とか悪魔とかのせいにはできない。
奇跡のコース(ACIM)という教えがある。
私も一時期ハマったし、素晴らしい内容だ、と思う。
しかし、どうしても西洋人に合うように、彼らが納得しやすいように書かれてあるのは否めない。
バカな! あれはイエス・キリストによりある人物を通して書かれたものだから、間違いはない! そう言いたいところだろうが。
●いくらチャネリングが優れていても、その人の価値観や思想的背景がどうしても内容に影響する。これを忘れてはいけない。
例えば、イエスをチャネリングしている、と主張している人は世界に沢山いる。
でもみんな、言うことが少しずつ違う。
あるチャネリングされたイエスは、やさしさのにじみ出る言葉しか使わない。
また、あるイエスは、少々あくのきつい、厳しい言葉をつかう。~だぜ? みたいな。あるチャネラーの霊視するイエスは、ハンサムで体の線が細くて、色白。
またある人によれば、浅黒い肌の、筋骨隆々の体育系男子。
つまり……
●唯一正確なイエス像などない。
皆、自分の見たいようにイエスを見ているだけ。
ACIMもまた、その例にもれない。
だから、進んだ考え方のACIMでさえ、「神がいる」ように書いてある。
聖霊(ホーリースピリット)という、自分とは何か別物がいて、それこそが人間が絶対に信頼し聞き従うべき対象、とされている。
間違っちゃいないんです。
でも、これは大いに誤解される可能性がある。
聖霊は、ぶっちゃけた話 『私自身』 が正体だ。神意識のことを言っている。
伝統的キリスト教の背景をもつ人に分かりやすいようにしたことが、仇となりかねない。明らかに、キリスト教でいう聖霊は、人間及びその魂とは別個の、独立した霊的存在である。
だから、結局「自分はモノを知らない。何も分かっちゃいない」という、謙虚とすりかえた自己卑下になる。
また、「だから、己の不確かさを知り、聖霊に頼るのだ」という、ちょっとズレた信仰になってしまう。
いやいや、あなたがすべてなんですって!
聖霊に委ねりゃうまくいく、ってのよしましょうよ。
宇宙の王は、キリスト教のいう神でもイエスでも聖霊でもなく、私。
こんな楽しいことはない。
(まぁ、イエスも聖霊もある意味私……なんだけども。)
神とは、私やあなた、という以外の表現をすると——
あなたのホンネの願いをかなえるために手を貸してくれる、自らの意思を持たない無限のエネルギー体、という言い方もできる。
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