バプテスマのヨハネ、勝手なイメージをイエスに押し付ける 

「……わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」



 マタイによる福音書 3章11~12節



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 イエス自身が、全面的に指導者として立ち上がる以前、「バプテスマのヨハネ」という人物が活躍していた。ユダヤ教の神に忠実なことこの上なく、広く尊敬を受けていた。また、自分に厳しく他にも厳しい人であった。またイエスがこの人物に師事していた可能性もある。

 今日紹介した聖書の文章は、そんなヨハネが群衆に向かって話したスピーチの一部である。全文を紹介すると長いので、ちゃんと読みたい方は聖書を用意して、この少し前の箇所も読んでみてください。結構、厳しいことを言ってますから!



 上記の聖書箇所は、ヨハネが「来るべきメシア」について述べたものである。

 メシアとは「救い主」を意味する言葉で、ユダヤ教(l旧約聖書)ではそういう神の使者が遣わされて、失われたユダヤの国を再興し、平和をもたらすと期待されていた。ヨハネは、自分にとっての「メシアとはどういうものか」というイメージを述べているのだ。

 注目したいのは、次の点。



①わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。

②わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。

③その他の部分も、どこか人を越えた存在(超越した存在)というイメージを漂わせている。



 ……だのに、実際に来たのは——

 イエスである。バプテスマのヨハネは、イエスがそのメシアと知ってびっくりする。彼の心を搔き乱したのは以下の点である。



①ズーズー弁。日本で言う津軽弁みたいな感じ。イエスの話すガリラヤ地方の言葉は、なまりがひどい。聖書では、イエスの言葉は洗練されたものに編集されているが、実際は多分「お前たちに言っておく」→「おまはんらににゆうとくで」みたいな感じ。雰囲気としては、「おら東京さいぐだ」の吉幾三みたいなのを想像していただくとよい。


②プロレスラーみたいなマッチョマン。大工が仕事なため、超がつく肉体労働となる。当時の大工は、今みたいに機械も至れり尽くせりの便利な道具もないので、今の大工さんよりもたいへんである。おおよそ、宗教指導者としてピッタリなルックスとはかけはなれていた。

 キリスト教がイスラエル(中東)から西洋に伝わったせいで、イエスのイメージが「金髪・色白・青い目のスマートなイケメン」みたくなっているが、大間違いである。「ちりちり頭、色黒、マッチョな堀の深い顔」がイエスの実像に近いだろう。


③大酒飲み、大食漢

「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

【マタイによる福音書 11章19節】

メシアというとユダヤ人の宗教的頂点に立つ人物である。宗教指導者は、食べるよりかえって「断食」しているイメージがあるほうが立派だが、イエスの食欲は異常なほどだった。食べ物ならまだしも、「酒」が入るので、なおのこと完璧な宗教者イメージから遠い。

 悪魔に試みられる前、40日の断食をしたと聖書にはあるが、ヨハネはそんなこと知らない(イエスが言ってない)可能性のほうが高い。聖書なんてこのころないんだしね! たとえヨハネがそのことを聞いても、「マジか! 今のコイツからはぜって~想像できねえ!」と首を振ることだろう。


④女癖の悪さ

 これは、筆者の見解になる。聖書には、それほど根拠は書かれていない。

 ルカ福音書に、マグダラのマリアをはじめ何人もの女性がイエス一行に同行し、奉仕したと書かれている。書かれているのはそれだけだが、色々な仮説(可能性)は考えられる。私個人は、イエスは女好きだったと考える。ルパン三世並みの女たらしだったのではないか。彼女らは、ある面での「奉仕」もしたかもしれない。

 何も、モテるのはイケメンだけではない。色黒マッチョで多少田舎臭さも残る顔としゃべり方だが、母性本能をくすぐるというか、安心させるところがあったのではないか。『性豪』とまでは言わないが、結婚もせずに性交渉は「絶対にいたしません」というかたい男ではなかったはずだ。

 マタイ福音書にある「右の眼が罪を犯す時には捨てろ」みたいな性に関して厳しめの言葉は、捏造と考えていい。言うわけがない。



 バプテスマのヨハネがメシアに対して抱いていたイメージは、「自分よりもはるかに優れている人」である。もっと言えば、「世間からは立派だと尊敬を受けているこの自分が、さらに尊敬できる自分が認め得る人物」である。

 だって、その人の靴の履物を脱がせるねうちもない、って言ってるんですよ。

 ところが、イエスはどうだ! じぇんじぇん、違うやん! ヨハネのイメージをことごとく裏切ってくれちゃって!

 そんなことで、ヨハネはイエスをだんだん「メシア」だと思えなくなっていった。思えなくなったというより、思いたくなかった(違ってくれたほうがいい)というのが近いだろう。

 もちろん、信仰する立場からは「ヨハネは実はイエスを不信などしていない」というだろう。聖書では「来るべき方はあなたですか。それとも他に誰かを待つべきでしょうか」と書かれているヨハネの言葉に対し、色々な聖書学的な理屈を駆使して「疑ってナ~イ!」と言ってくるが、勝手に言ってろ。

 そういう人種とはいつまでたっても話が平行線なので、もう互いのためにも関わらないで生きようぜ。



 このヨハネが陥った罠というのは、現代人も気を付けるべきである。



●あなたも、他人に勝手なイメージを押し付けて、勝手に幻滅するというアホな一人相撲をとっていることがあるんだよ。



 あなたの中にも、色々な「こうあるべき」という基準があるでしょう。

 親。上司。指導者。同僚。店員。

 もちろん、その基準は多くの場合、間違って使われることは少ないだろう。

 でも、人間は四六時中(睡眠時以外は)生きて、他者と関りながら活動していることの連続なのである。たまに、あなたは自分の価値判断(ものさし)を誤って使う確率は一定存在する。

 バプテスマのヨハネのような失敗を犯さないために、あなたにできることは——



●あなたのその「~は~であるべき」という物差しは、本当に絶対な必要条件なの?



 これを自分に問うことである。

 ヨハネの例で言えば「メシアが田舎弁をしゃべったらいけないのか。役目が果たせないのか」「メシアは標準体型で物腰が柔らかくて、見た目尊敬を集めやすいルックスでないと務まらないのか」「メシアは酒飲んじゃいけないのか。大食いだといけないのか。まあ、メシアは『めしや』とも表記するくらいだからね!」「メシヤがエッチ(スケベ)ではいけないのか?」(まぁ当時の考え方は固かったから、イエスほどの奔放さはちょっと時代が早すぎたかも)

 自分にはその人の履物を脱がす値打ちもない、なんて大昔のアイドルファンみたいだ。そのアイドルはトイレに行かない、みたいな妄信!



 あなたが、自分の目上の人物をあれこれ裁きたくなる時、幻滅する時。

 その裁きは、あなたの勝手な思い込みが作り上げている不当な裁きである可能性はない? ということを考えることができたら、あなたは人として大きく成長できるだろう。

 

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