イエス、悪魔から試練を受ける① ~石をパンに変えてみろ~
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊” に導かれて荒れ野に行かれた。
そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。
「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」
イエスはお答えになった。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」
マタイによる福音書 4章1~4節
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イエスが、三年間の公生涯(十字架にかかるまで。表立って活動をした期間のこと)を出発するにあたって、一番最初に起こったとされる出来事である。
悪魔から、三つの試練(誘惑とも言われる)を受け、見事クリアすることにより、メシア(救い主)としての資格が認められ、大手を振って活動開始できる、という程度の意味合い。
まぁ、イエスが生まれた最初からすでに救い主で神の子でスゴくて、というのは伝説 (レジェンド)だ。実際には違う。もちろん、非凡な人物として、青年期にすでに頭角は現していたのかもしれない。
でも、普通人として暮らしているある日、『覚醒』した。
そこから、彼の覚者(悟り人)としての歩みが始まった。
彼の「意識の目」が開けてからの、最初の「幻想世界」との衝突である。
まずは、ここの世間一般的な、キリスト教の模範的な解釈を紹介する。
断わっておくが、キリスト教と一口に言ってもその範囲は広い。
カトリックとプロテスタントで違うし、プロテスタントに限っても四百を超える教派があり、教派が違えばかなり考え方が異なることもある。
だから、今から言うものも、数ある解釈の一例にすぎず、決して決定版ではない。
人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる——。
イエスは、悪魔の問いかけに対して、そう答えている。
単純に考えれば、人が生かされているのは、水や食料、空気などといった 「外的・物質的」 なものだけでなく、本を読んだりいい話を聞いたり、素晴らしい風景を見たり人と交流したりする中で得る 「内的、精神的」 栄養、といった要素もある。人は、そのふたつによって生かされているとも言える。
クリスチャンにとっては、同じ内的栄養であっても、「聖書の言葉、イエスの言葉」(つまり神の言葉)を栄養源とするものに、最高の価値を置いている。
だから、悪魔の試練 「パンを石に変えろ」とは次のような意味合いになる。
●石、とはキリスト(神の子の立場)を指す。
●パン、とは人が現世で生きるのに必要な物質的なもの(食料・富)を指す。
石(神のもの)を自分の都合(苦しい・食べたい)のために、より価値の低いものに変えてしまうことになる。
つまり——
今腹が減っているから、とにかく食べさせろ!
神の言葉? 腹が減っているのにそんなもん何になるか!
神の子の使命? メシア(救い主)としての立場?
もう、それはいいから!
そんな苦しい道を行くくらいなら、オラ普通に生きる!
これと同じ構造は、旧約聖書の 「ヤコブとエサウ」のお話にもある。
イエスは、改めて問われているのである。
キリストとして生きる道は、ハンパなく辛いぞ、と。
今くらい苦しいぞ、と。
(40日間メシを断たれ、「今パン食べれるけど欲しい? そのかわり、食べたら救世主失格だけどね!」と言われる状況)
それでも、神の子の立場を選ぶか?
それとも、石(神)をパン(刹那的な価値しかないもの)に変えてしまうのか?
そしてパンに飛びついて、 「永遠の命 (石)」よりも「今さえよければいい、どんなに大事なものを犠牲にしてでも、飢えをしのぐ(パン。物質的食料)」ことを選ぶのか?
悪魔は、それこそが狙いなのだ。
イエスよ、もしお前が石をパンに変えたら、飢えに負けたら、オレは待ってましたとばかりにこうツッコミを入れるぞ。
そら見ろ、お前には世の救い主の資格はないぞ、とな。
例え苦しい状況とはいえ、神の言葉よりもパンを選ぶやつが 「神の子」を名乗るとか、人類を救うとか、お笑い種だ——。
端的には、こうまとめられる。
まず、浅い理解(クリスチャンでなくても、読めば何となく汲み取れる解釈)では、こういう感じになるだろう。
●「目に見える物質的なもの(食べ物、富、地位や名誉)だけが大事なのではなく、目に見えない無形なもの (心、魂、神の言葉、感動体験)も大事なんだ」
信仰を持ったクリチャン的には、こう。
「どんな時でも、一番死守すべきものは「神様」であり、「神の言葉 (聖書)」 。イエス様は、神の子として、身をもってそのことを教えてくださった。だから何があっても、自分の事よりも神様を優先できる。
それこそ、信仰者の
その究極形態が、『イエスの十字架の赦し』なのである。
全人類のために(彼らの罪を背負って) 、十字架で自分を犠牲にしたのである。
その神の子業務の出発点において、自分の飢えよりも神の言葉を大事にしたイエスは、その初心を貫いて、同じように人生の最期においても、自分の肉体の命を捨てて、神の願い通り十字架にかかったのである。
ではここから、私流 の「身もフタもない解釈」に移る。
まずは、本題とは関係ないことを指摘するが、イエスが石をパンに変えても何の得もないのである。
三日以上の断食をしたことのある人なら、わかると思うが——
(宗教的動機にせよ、ダイエットの一環だったにせよ)
断食が終わって何か食べる時に、いきなり普通の食べ物を食べてはいけない。
断食期間が長ければ長いほど、胃が弱っている。だから、食を断った日数分と同じだけ、超柔らかいおかゆなど、消化に良いものを食べなければいけない。牛丼やフライドチキンなど、もってのほか。死にたければかまわないが。
だから、40日も断食した人間が、いきなり普通の固さのパンにかぶりついたら、えらい目に遭う。まさか、悪魔がそこに「パンがゆ」が作れるように鍋や焚火や水を用意してまで誘惑したわけではないだろうが。
だからこの場合、イエスを誘惑してくじけさせるなら——
『石をおかゆに変えよ。(または重湯に変えよ) 』
……のほうが、イエスが 「ああっ!それは誘惑だぁっ! どうしよう?」 と悩んだかもしれないのだ。
でも、フツーのパンだったらねぇ。イエスは食べたい、とは思わなかっただろうねぇ! 何せ、胃が受け付けないんだから。
この物語を、逆から解釈していくと、分かりやすい。
まずは、悪魔に対するイエスの返答のほうから。
「人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」
さて。筆者が悟り体験から得た確信は、人=神だということ。
だったら、神の口から出る言葉とは、『私たちが日々口にしている言葉』である。じゃあ、人が自分の言葉によって生きる、とはどういうことか。
魂の声に従って、自分の言いたいことを言う。
心からしたいことをする。
だから、神(人)が自分の言葉で生きるとは——
「オレはこうしたいぞ! こう生きたいぞ!」
そういう魂の宣言によって、生きる力(パワー)を得るのだ。
その言葉通りに生きることこそ、この世というゲーム世界の「目的」なのだ。
その解釈でいくと、悪魔の誘惑の言葉はこう変換できる。
「イエスよ。この世界でうまくやるには、自分の言いたいことを言い、したいことをしていたのでは大変だぞ?
他人と折り合いをつけていかないといけない。偉いやつ、力のあるやつには、例え相手が間違っていても、逆らわない方がいいだろ?
お前がこれからしようとしていることは、ほとんどの人間がフツーにやっている生き方とは、全然違うんだ。ここだけの話、在り方として進んでいるのはお前の方だが、皆そんなこと分かっちゃくれない。
お前の方を、おかしいと思うぞ? ついていけないやつのほうが多いぞ?
なぁ、イエス。そんな険しい道行くの、やめなって。
悪いこと言わないからさぁ~
世の中に合わせて、波風立てないで生きろよ。(石を、パンに変える。すなわち、自分を世間に合わせろ、迎合せよということ)
逆らったって、今の時代殺されるのがオチだぞ?
それでも、お前はその覚醒意識で、世に働きかけよう、ってのかい?」
覚醒したマスター・イエスは——
自分の保身のために、魂を押し殺す気など毛頭なかった。
魂の声に従って生きるワクワク感や喜びの前では、したいようにし、言いたいように言ったら自分がこの世界の中でどうなるか、などの心配は、イエスを阻む理由にはならなかった。
自分のハートに従って、その声を聞き、その上でしたいようにすることこそが大事だった。だから、イエスは悪魔にこう返答したことになる。
「うるせぇ!
おらぁ神だ! (他の皆もそうだがよ……)
だから、オレはオレ自身の言葉で生きる!
オレがしたいと言ったらするし、イヤだと言ったらしないんだ。
だから悪魔、オレに指図すんな!」
……とまぁ、たったそれだけのことなのである。
キリスト教的に、どうしてもここは深読みしてしまうが——
「オレのやりたいようにやらせろ。」
そんな当たり前の主張を、イエスはしただけなのだ。
この世界は、今の話の悪魔のように、これをしろあれをしろ、こう考えろと吹き込んでくる。
親や教師。会社の上司。発言力のある有名人、学者などの有識者……
彼らの言うことが世界のお手本で、あなたは勉強しないと何も分からない。
人生の主役であるはずのあなたに、常に 「石をパンに変えろ」 と迫ってくる。
自分の意思など捨てて、世の中の主流(常識)に従え。自分をその型に当てはめよ、と。
さぁ、あなたはどうする?
その方が現実面での苦しみが少なく楽だから、恐れや保身に膝を屈する?
それとも、正体が神であるあなたには、実は世に迎合することこそが、どんなに表面的に成功しても、暮らしが楽でも、魂はその比にならない不満足を感じていることに気付くか?
そしてその気付きの上で、魂の言葉に従って選択をし直すか?
悪魔がイエスに対して発した質問 「石をパンに変えなよ」 という言葉はまさに今、あなたに言われていることなのだと受け取っていただきたい。
ちなみに、ここで出てくる「悪魔」は、比喩だと思う。
実際にイエスと悪魔が会話をしたのではなく——
イエスを良く思っていない、隙あらばイエスにギャフンと言わせてやりたい敵対する誰か、のことを言ったものだと思う。それが、寓話的に「悪魔」となった。その方が、お話としてはインパクトがある。
アニメの一休さんで言えば、『桔梗屋さん』だと思う。
一休さんをやりこめるつもりが、見事な返答をされ——
「さすがは、一休さんだ!」
となって、尻尾を巻いて逃げる。
それと同じようなことが、あったのだ。
そのイエスの初期のエピソードが、後に伝説の大人物となったイエスのエピソードにふさわしく、話のスケールを大きくして……「神の子イエス vs 悪魔との対決!」という大げさな話になったのではないか。
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