すべてを捨てて従えと言ったイエス ~本当は、富と自分を同一化するな、という意味だった~

①だれでもわたしについてきたいと思うなら

 自分を捨て、自分の十字架を負うて

 わたしに従ってきなさい。


【マタイによる福音書 16章24節】



②そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。


【ルカによる福音書 5章11節】



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 今紹介した二つの聖句を読んでいただきたい。これらの言葉から、人はイエスの弟子となることにひとつのイメージを持ってしまう。



●イエスに従う資格は「すべてを捨てる」覚悟があること。

 実際にすべてを捨てるところまでいかなくとも、この世で自分の最も大切にするものよりもイエスを大事にできる、言い換えればイエスのために最も大切なものすら捧げることができる、くらいでないといけない。



 ちなみに②の言葉は、イエスが路上スカウトした弟子に対して「私についてきなさい」と言ったあとの、弟子の行動を記述したもの。

 イエスが最初にスカウトした弟子たちは、漁師だった。彼らはイエスについてこいと言われ、網や船を一切捨てて、両親も置いてイエスに従った、という。

 また、聖書にはこういう過激なイエスの言葉もある。



●はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。


【マルコによる福音書 10章29節】



 さて、聖書のこういった言葉を聞くと、誤解しやすい。

 つまり、神のために信仰のために、邪魔になるお金や富を捨てろ、ということか?

 所有欲、というのは人が完全になっていくためには、捨てるべきものなのだろう。

 だから、すべてを捨てないと、イエスのようにはなれない、ということだろう——

 文字通りに「すべて(所有)を捨てなければ、天国に入ることはできない」と思ってしまうのだ。



 だから歴史的にキリスト教徒は——

 清貧ということを大切にし、他者への施しを大事にしてきた。

 彼らはお金持ちになる、ということにもあまりいい感じを持たない。

 もちろん、キリスト教は宗派が無数にあり、現代では時代の要請でそのあたりはユルいので、「神は魂だけでなく、現実でも豊かになることを望んでいる」という考え方が支持され始め、かえって財産を豊かに持つことを奨励する宗派のほうが、信者をより獲得し主流になりつつある。

 でもここは、すべてを捨てる=所有物を捨てる、というのはマチガイ。

 イエスが本当に言いたいのは——



●すべてを捨てる=すべてのものと自分を同一化しない



『同一化』とは、本来同一ではないのに、対象に対して自分をピッタリ重ね合わせるほどに価値を置くことで、その対象の変化が主体に対し、多大な影響を与えてしまうことを言う。

 いくつか、例を挙げよう。

 あなたは、生きていて、自分の命を持っている。(幻想だが)

 フツーの人は、自分(意識)と自分の生命とを同一化しているので——

 失うのが怖い。死にたくない。

 卑怯なマネをしてでも、生き延びたいと思う。

 あなたが子どもや親や兄弟、夫や妻を大事にしている場合。

 その愛する人に変化があった場合。(死別、離別、病気や怪我)

 即座に、あなたは悲しんだり、生きる気力を失ったりなどの影響を受ける。

 大切にしていた土地・財産・株・骨董品や貴金属などが失われると、あなたは悲しみに暮れる。悔しがる。



 本来、宇宙の王としてのあなた自身と、幻想である対象物との間には、何の関係もない。ないが、エゴ(自我)を通して、あえて強い関係性を結ぶ。

 相手の神経回路を自分につなぐようなものだ、と考えてほしい。

 だから、対象物が損害を受けたら、本来受け取らなくてよかったはずのダメージを、神経回路がつながっているあなたも受け取ることになるのである。

 皮肉だが、まさに「自業自得」である。執着や所有欲、というものを通して、わざわざ自ら「ダメージを受ける可能性」を構築してしまったのだから。



『新世紀エヴァンゲリオン』という大人気アニメがある。

 主人公たちが「エヴァ」と呼ばれる兵器(ロボットのようなもの)に乗り操縦し、敵(使徒、と呼ばれる人類の脅威)を倒すお話である。

 今までのロボットアニメと、決定的に違う部分がある。

 これまでは、ロボットが攻撃されてダメージを受けても、パイロットには伝わらなかった。もちろん、衝撃など間接的にはダメージがある。しかし何も、ロボットが受けたそのままのダメージや感覚が来るわけではない。

 でも、このエヴァに乗るためには、『神経接続』なるものが行われる。

 痛そうだが、機体であるエヴァと搭乗者は、神経感覚を共有するのである。

(注:すべての種類の神経を接続するのではないらしい)

 だから、例えば機体であるエヴァの腕がちぎれたら——

 パイロットも、自分の腕がちぎれたのと同じ苦痛を感じるのである。

 ただし、感覚だけを共有するのであって、実際にパイロットの腕もちぎれるわけではない。



 例えて言うなら、私たちがこの幻想世界で様々な対象物と自分を「同一化」するのは、そういうことに似ている。同一化した対象がどうなるかで、人の気持ちや意識の在りようが左右されるのである。

 本来的に人間は、意識の方が気分や選択を決定できる主人の立場にあるのである。しかし、同一化という手続きができていることで、自動的に気分や選択が左右させられる。この場合、同一化先があなたの主人の立場に成り代わっている。

 執着、つまり「これは私のもの」という強い所有意識や、「この人がいないと私は生きられない、生きていても仕方がない」などという依存意識こそが、エヴァとの神経接続、つまり「同一化による、対象との運命共同体化」に当たる。そして、あなたが頼りにするその接続対象は、案外もろいのである。



 じゃあ、どうすれば周囲の事物に自分の幸せな在り方を妨害されずにすむのか?

 周囲で起こる現象に、自分の意識状態を翻弄されずに済むのか?

 答えは単純。

 同一化しなければいいのである。 

 えっ、そんなの当たり前って? もっと具体的にどうするのか、って?

 


●神としての本来の自分の意識には、幻想は何ら直結していない。

 同一化など、本来はされていないことに気付くこと。

 神経接続など、されていない。されている、と思うから痛いだけ。



 単純に言えば、「同一化するから苦しいのだ。同一化するな」という話になるが、残念ながらそれはムリである。

 この世界に来た目的自体が、同一化しないことを不可能にさせている。

 この世界には、ワンネスが無数の個に分離してやってきた。

 自他、という概念から逃れられない世界。主体と対象、が絶対に存在する世界。

 何かと「関係」を持つことでしか、存在できない世界。

 言い換えると、「同一化」をしなければ生きていけない。

 それをしない、ということになると、一体何のために、この二元性冒険世界に来たのか? 遊園地に来て、乗り物に乗らないようなものだ。

 食べ放題のバイキングに来て、何も食べないようなものだ。(信じられない!)



 だから、歴史の中で一部の覚者たちは——

 俗世界との関係を断ち、地位も名誉も財産も捨て、結婚もせず子どもも持たず、山奥にこもり瞑想をし、神(くう)との関係にのみ幸せを見出した。 

 確かに、ほとんどのものと神経接続(同一化)しないんだから、楽だわな。

 子どもも奥さんももたないから、そもそも失わないから、苦しみが生まれない。

 地位も名誉も財産もないから、失って苦しい悲しいもない。

 でもそれって、何のためにこの世界に来たの?って話になる。

 同一化(執着) から生まれる苦が嫌なら、そもそもこの幻想ゲーム自体が要らない、ってこと。

 だから、苦しみを避けるために「同一化」自体をやめる、というのは賢いあり方ではない。

 確かに、恋をしなければ、フラれて傷付くこともないだろう。

 挑戦しなければ、失敗することもないだろう。

 試験を受けなければ、不合格にされることもないだろう。

 何もしなければ傷付かないけれど、あなたはそれで本望?



●私たちは、すべてのモノやヒトと関係して生きており、その関係性は逃げたり解消することのできない性質のものである。仏教ではこれを『縁起えんぎ』と呼び、西洋ではピッタリな言葉がないがあえて近いものを上げると『バタフライ効果』になるだろう。つまりは、同一化しないでこの世界で生きるということはあり得ない、ということである。

 同一化のゆえに、苦しみが生まれる。

 そこに明確な「分離」を自覚しているとき、あなたは覚醒している状態です。

 どんな出来事も、モノも、人も、同化しなければあなたは至福の聖域にいる。その時あなたはどんな不幸の波にも、いかなる不況の波にも影響を受けない。



 私たちの存在の中心は、本来的に「くう 」に繋がるゼロポイント、つまり「みなもと」にある。

 だから、幻想フィールドで捉えられる事物との間には、本来決定的な溝(スキマ)があり、本来はその幻想の事物が、源である私たちをどうこうすることはできない。宇宙の王を左右することはできない。

 しかし。私たちが神であることを忘れ、こんな大変なゲームにしてしまったので「過度な同一化現象」が起こり、皆感情の主人になるどころかかえって振り回されるようになり、「不幸」と呼ばれる現象が大量に生み出される(認識される)こととなった。

 確かに、同一化しなければ苦しみは生まれない、というのは理屈だが、そうしないでは、この世に生きていて何の楽しみもなくなる。

 だから、インドの山奥で一切の執着を断って 修行して~というのでなければ、同一化していると分かっていて、あえて確信犯的に楽しむしかない。



 同一化しないのは、ムリだ。

 だから、せめて「私はこれこれと同一化している!」と認識しておけばよい。

 心の片隅に、置いておけばよい。

 それは、いざという時に天地の差を生む。

 同一化している、という客観視こそ、本来の自分(神意識)と幻想世界にある自分の外の事物との間に「スキマ」を感じることに相当する。

 それこそ、覚醒という境地が生み出す認識パターンである。

 覚醒者は、苦も無くこの認識パターンを繰り返せる。

 そうでない方でも、継続性に難は生じるが、努力して意識的に実践することで同じことができる。


 

 話を、一番最初に戻そう。

 これまで述べた見地から、イエスの言った『全てを捨てなければ、天国には入れない』とは、所有物を捨てろ、とか地位や財産を欲しがるな、とかそういう単純なことではない。

 全てを捨てるとは、この場合——

 対象と同一化したことによって幻想として生じる神経接続を、ニセモノであり、幻想であるということを分かっておきなさいよ、ということ。

 対象がどうなろうが、それによって神であるあなたが左右され、主人として主体的にどう在りたいか、を決める権威を失うなどということはない。

 同一化は避けられずとも、その事実は知っておきなさい。

 あなたが感じるであろう、喪失の悲しみ。苦痛。恨み。

 それらがいかに強くとも、あなたが本来、いつだって 「ゼロポイント(みなもと)に在る」 という事実には勝てない。

 ただ、あなたがそう思えていないから、あなたが外のものに運命を翻弄される、という幻想を見るだけ。だからその流れで、現実の前には自分なんて無力だ、と決めつけてしまう。



●「所有」などという行為は、本来できない。お金を持っているとか土地を持っているとか、それは私たちのエゴの認識が生むお遊び。

 できないことを「できる」と思い込んでいるので、本来あなたを翻弄する権利も力もないものに、権威とパワーを与えてしまっているのだ。



 私には、奥さんがいて、子どもがいる。

 失ったら怖いから、その時自分が苦しむのがイヤだから、「同一化しない」か?

 確かに、感情を殺して深く愛さなければ、何かあっても苦しみは少ないだろう。

 でも、それで生きている、って言えるか?

 だから筆者は、思いっきり奥さんと娘を愛して、めちゃ「同一化」して生きている。同化している(どうかしている!)と笑われるかもしれない。

(ハイ! ここ笑うとこ!)



 でも、私は「同化している」と分かった上で、あえて同化している。

 確かに、人間キャラとしての私は、喪失を体験した時大きな感情の揺れを経験するだろう。でも、私が認識している「本来の私と幻想の対象物とのスキマ」のおかげで、たぶん早いうちに、立ち直るだろう。

 起き上がりこぼしが、倒されても時間と共にムックリと起き上がるように。



●この世ゲームで上手にプレイするコツは——

 苦しみを生む「同一化」を、世俗と縁を断って山籠もりでもして一切しないことではない。同一化である、と踏まえた上で、あえてそうすること。

 ゲームをゲームと分かって、あえてそのハラハラやストレスを楽しむこと。



 ゲーセン行って、ゲームしない。それだと悪い結果だったり、すぐゲームオーバーになって苦しむことは避けられる。

 レストラン行って、何も注文しない。これだと、想像したより美味しくなかったりして、「金返せ!」というイヤな思いになる可能性は回避できる。

 大学を、どこも受験しない。これだと確かに「すべる」という恥ずかしい現象は、起こらなくて済む。

 他者を深く愛することをしなければ、多少の事では傷付かないで済む。

 一切告白しなければ、求愛しなければ、フラれることは一生経験しないで済む。



 でも、これって楽しいですか?

 やっぱり、対象に真剣に取り組んでこそ、情的エネルギーを注ぎ込んでこそ、楽しい。躍動的な、「生きてる」って実感のビンビンする人生になる。

 確かに、何かあった時に喪失感はハンパないかもしれない。大きく、傷付く感じがするかもしれない。

 でも、いいじゃない。失うことを恐れて何もしないなんて、それこそ「苦痛のない地獄」だと思いませんか?

 だから。

 同一化しなければエンジョイして生きられないあなたに、空が与えるせめてもの贈り物。それが、以下の情報だったのだ。



●神としてのあなたと、対象物の間にはスキマがありますよ。

 あなたはすべてを持っているか、何も持っていないかのどちらか。

 所有など幻想なのですから、あなたが感じる過度なまでの喪失感は、あなたがそれに気付くそばから、どんどん力を失っていきます。

 それに気付いた時、あなたの魂は天国にいるかのようになります。

 あなたが何かと関係を繋がないでは生きられない世界にいる以上、何かと深く関わることは、避けられません。

 でも、あなたには武器があります。それは、あなたが神として、あえてこういう体験をしにきたのだ、という知恵です。

 それがあれば、例え目の前の現象に打ちのめされるようなことがあっても、その知恵を持たなかった時代よりも、はるかに早く、もっと強く——

 再び歩き始めることができるでしょう。

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