Q&Aのコーナー『信じていた宗教をやめたなら、信じていた期間はムダにしたのでしょうか?』

 Q.


 私は、生い立ちに過酷な状況があり、子供時代にプロテスタント系のキリスト教に依存しました。

 聖書の神は、怒ったり、裁いたり、慈しんだりと、とても人間的な感情を持ち、唯一絶対の一神教。

 人間は罪びとだから救済が必要との教え。不信仰も罪とされ、弱い心は洗脳も余儀なくされる。

 また十戒など「~ねばならない」の教えも子供心に鋭くせまり、家庭環境による極端な白黒思考の素地があった私は、思春期になるころには、裁く神への恐ろしさ、見捨てられ不安から精神を病んでしまいました。

 数十年経て、今は現実に即して生活していますが、こちらに示されたような真実がほんの少しでもわかっていたら、不幸な半生は違ったものだったろうと悔恨の涙です。

 一人ひとりが光があり、神である自分を信じることができるなら。

 本来宗教は要らない、と今ならよく理解できます。

 でも、その理解に行けず、苦しくて救い求める人たちが素直に聖書を読めば——

 聖書の記述そのまま信じ、聖職者の言葉を鵜呑みにしてしまうだろうと思います。

 なぜ、人類にこれほど大きな影響与えるキリスト教・聖書に、真実と違う記述がこれほどあるのでしょうか?



 A.過去の恨みは忘れ、「ありがとう」 と言ってそっと手放しましょう。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 私は若い頃(今だって若いぞ!?)、統●教会という新興宗教の信者であった。

 ものすごく過激な教えであったから、親も含め周囲は心配した。

 私自身は、今から思えば勘違いであったとはいえ、当時は救われた思いがしてそれなりに真剣であった。

 周囲の説得にも折れない頑固者(教会側からすれば信仰者?)であった筆者は、最終的に親族によって拉致監禁され脱会を迫られる、というところまでもつれた。

 その時の経験は、大変苦いものであった。



 その後七年間くらいは、宗教には近寄らずに過ごした。

 しかし。現実に必死に向き合ううちに、我力ではやっていけなくなった。

 本当に、人生がボロボロになった。

 そこで思ったのが何かというと——



「そうだ。

 新興宗教になぞいきなり行ったから、まずかったんだ。

 大昔から続く、伝統的な既成宗教だったら、間違いないんじゃないか?

 そんなにズレたことやぶっとんだことは、言わないんじゃないか?」



 ……と、そのように考えた私は、既成教会の門を叩いた。

 そこで、質問者が言われるようなキリスト教の基本教義を叩き込まれた。



 私たちは、罪人である。

 それは、自分ではどうしようもないものである。

 ただ、罪のない神の子であるイエス・キリストによってしか、罪のあがないはない。だから、ただ信ぜよ。受け入れよ。救い主イエスを。

 洗礼(入信の儀式)によって初めて、神様の子どもとなるのである。

 他に救いはないので、残念ながらイエスの名を受け入れない者は、天国へは行けない。残念だが、地獄へ行く。



 クリスチャンとしてある程度の信仰歴を積めば、このような考えが当たり前になる。やっているうちは気が付けないが、実はクリスチャン人生はものすごく苦しいのだ。それは一体、なぜか。



①伝道しなければならない。


 これは、宇宙の王であり神である他者に、自分の宇宙の信念を押し付ける行為である。すべての人を、同じ思想信条のもとに統一しよう、という危険な考え方。

 救われている者(信者)と、救われていない者(未信者)を分ける。

 存在するだけで同一の、最高の価値をもつ神々を、勝手な二分法で評価している。

 これは、共生共栄(あるがままで私もOK。あなたもOK!)の、宇宙の法則から

大きく外れている。



②無意識に、未信者を色眼鏡で見る。


 よく、「上から目線」 と言われる部分である。

 救ってあげないと。私を通して、神様の愛がこの人に伝わりますように……

 私、救われている人。この人、救ってあげないといけない人。

 まぁ、地球人と宇宙人みたいなものか。

 親友や親兄弟に対してであっても、信仰のない人が普通もつ認識とはビミョーにずれるのである。すべて、神による救いを基準として考えてしまうから。

 信者でない方からすれば——

「あんたや、カミサマに救ってもらわないといけないほど、私は惨めじゃありませんことよ!」

 ……とでも言いたくなるところである。

 結局、伝道に成功するのは悩んでいる人・苦しんでいる人。付け加えて素直な人限定。とてもではないが、これでは全世界の人を変えることなどできない。



③楽しくないところへは誰も来ない、ということが理解できない。


 例えば嵐のコンサートとかだったら、一気に数万人でも集められる。

 でも、キリスト教の伝道集会だったら、必死に集めても来ない。

 それはなぜか? 答えは単純。

 楽しくないからである。

 クリスチャンになると、そんな当たり前のことが分からなくなる。

 これは、神の言葉だから。真理だから。

 私たち自身の力ではなく、イエス様が働かれるのだから——

 そんな考えで、魅力の薄いイベントを平気で開こうとする。

 で、集まらないと、「信仰が足りなかった」と考える。

 自分たちが、本当に人が引き付けられるものを提供できているかまでは、考えない。すべてが、神の言葉、私たちより力あるキリストの御業、で回っている世界だからだ。

 教会に人が来ないことを、「試練」だとか「世に俗的な刺激が多くなったせい」と考える。余計なお世話かもしれないが、もっと楽しく教会運営をやったらいい。


 

 私は、決してキリスト教を否定する立場ではない。

 何度も言ってきたように、すべての物事の価値は、中立であり、善悪はない。

 ただ、この三次元世界へは、ゲームをしに来ている立場だ。

 ゲームであるからには、まったく良し悪しがない、とは言ってられない。

 そういう、この次元における限定的な意味合いで、キリスト教というものがはらむ問題を挙げてみただけだ。(問題などないんですよ。本来)



 皆さんは、ゲームをすることがあると思う。

 例えば、RPG(ロールプレイング・ゲーム)を思い描いてほしい。

 キャラメイクをして、ゲーム開始時。 

 本当に、最低限の装備しかない。

 薄い皮の鎧に、攻撃力の弱い剣。

 だから最初は、それでも倒せる範囲の弱いモンスターを相手にする。 

 すると、少しづつではあるが、レベルが上がる。

 冒険を続ける中で、ちょっと強い剣や、硬い金属の鎧が手に入るチャンスもある。

 そうして、成長したキャラはさらに強い敵とやりあえる力を持つようになる。

 最高レベルにまで達した時。

 ゲームクリアの最終目的である、大ボスを倒すのに挑む。



 つまるところ、宗教の変遷とは、そのようなものである。

 最初は、民族宗教。

 自分たちの集団だけが、救われるというもの。

 キリスト教の前身である『ユダヤ教』は、これに当たる。

 その神自身も、全人類の神などでなく、その民族だけを救う神である。

 これが、RPGの初期のキャラである。

 次に、いよいよ民族や人種、男女関係なく——

 信じるなら差別なく救われる、という世界宗教。これは、RPGのキャラがある程度育ち、装備も充実し、冒険が一番楽しい時期である。

 そして、いよいよ人類歴史が煮詰まった今。

 神という、人間とは違う人格を持った絶対者がいる、という次元を突き抜け——

 私たちはゲームキャラであり、正体は神そのものである『空意識』だというところへたどり着いた。

 これこそ、RPGの終盤。

 最終戦は、やっぱりキツい。でも、それを乗り越えラスボスを倒した暁には、最高のエンディングが待っている。

 この書に触れた皆さんは、いわば、ラスボスに立ち向かえる特殊装備を手に入れたようなものだ。

 それをフル活用すれば、勝てる。

 言い換えれば、装備があるだけで何もしなければ、勝てない。

 最高の武器。そして、喜びをどこまでも追及するあなたの情熱。

 この二つが揃った時、あなたの最後の戦いは、とても戦いやすいものになる。



 私も、宗教というものには大変な目に遭わされてきた。

 今回の質問者の方も、そう。

 悔しい。あの年月を返して!

 そういう思いになるのも分かる。

 現に、筆者自身40過ぎまでの日々を宗教に費やした。

 でも、今になって思う。



●やっぱり、感謝だね。

 今の私を、ここまで導くのに必要だったんだ。



 いろいろあったけれど、やっぱりそう思いたいんですよ。

 私たちは、物事に対して自分の都合で単純にこれは良いこと、悪いこととレッテルを貼る。そして、悪いとしたことには嫌悪感を抱き、そんなものをもたらした他人、あるいは社会を恨む。

 でも、この世界のすべては、ただあるがままにあるだけ。

 人類は、自分の神であることを封印して、肉体人間として壮大なRPGを始めただけ。その過程の中で、一時は「あなたにとって都合の悪かったもの」たちはあなたの成長や魂の気付きのために、一時的に役に立ってくれたのだ。

 私も確かに損害もこうむったけれど、全部が全部悪いことばっかりだったか、といえばそうでもない。

 やっぱり、心動かされることもあった。自分なりの成長もあった。

 だから、やっぱり最後は感謝で締めくくりたいなぁ——。

 筆者は試行錯誤の末、真理探究の長い旅を終えた今、素直にそう思うのだ。



 では、今日のまとめに入ろう。



①究極の真理は、人格を持った絶対神などおらず、人こそ神自身だったということ。

②でも、神(空意識)は、全能で完全であることに退屈した。

③そこで、不完全な二元性の世界をあえてつくり、神としての自覚も取り上げて冒険を開始。

④無力なキャラとして冒険を開始した人間は、やはり自分より上の、強い神という存在がいると発想した。

⑤民族的宗教は、やがて世界的宗教へと発展した。キリスト教・仏教・イスラム教がこれに当たる。

⑥ゆえに完全な真理から見れば穴だらけのキリスト教であっても、人類の成長のために必要だった。

⑦新時代を迎え、今まで役立ってくれた宗教は、その役目を終えようとしている。

⑧覚醒者が増え「私自身が神(空意識)だった」という認識が急速に広まっている。

⑨その確信に到達するという恵みを受けて、私たちは古きものに「今までありがとう」と言う。


 

 イエス・キリストは覚醒者であった。

 今の時代で覚醒者なら脚光を浴びるかもしれないが、圧倒的少数派であった当時は、変人だった。

 当時の平均的な人々の理解を、はるかに超えて不可解だったことだろう。

 そのせいで、罪もないのに十字架で処刑された。

 それほどまでに、世の常識にとらわれた者にはうっとおしかったのだろう。

 殺意を抱くほどに。

 イエス自身は、何かの新しい宗教をつくろうなどとは考えていなかった。だから今あるキリスト教とは、厳密に言えばイエスの意図を完全に反映してはいない。

 弟子たちが、勝手に始めた。

(クリスチャン側は、それも神の指示だと言うだろうが)

 特に、イエスに会ったことすらないパウロという人物の考え方が、キリスト教の骨子になっている。

(クリスチャンは、それも神の御心です、と言うだろう)

 でも、私はイエスは人類の覚醒を促すために、偉大なことをされたと思っている。

 ぞういう、歴史的イベントがあったからこそ、スピリチュアルの歴史が動いてきた。キリスト教の存在も、しかり。

 今の時代、「最後の戦い」を迎えられるのも——

 私は、聖書やキリスト教のおかげもある、と思う。


 

 ですから、質問者の方。

 私もあなたと同じように、宗教に数十年を奪われた者として、アドバイスしたい。



●聖書と、キリスト教と、和解しましょう。

 色々あったけど、水に流しましょう。

 過去は忘れて、『今ここ』を生きることに、情熱を傾けましょう。

 喜びのみに、フォーカスしましょう。



 そして、過去のすべてに感謝して。

 さようならを告げて——

 一緒に、人類歴史のラストバトルに挑みましょう。

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