目からウロコ ~パウロの回心が語源~

 スピリチュアル系の世界でよく口にされる言葉で、『目からウロコ』というのがある。視点の変化、大げさには価値観の大転換(パラダイム・シフト)が起こった時のことを言ったものだ。

 目に張り付いて、その人の視界を遮っていたウロコのようなものが剥がれ落ち、よく見えるようになる(視野が開ける)というイメージ。

 でも、この言葉の語源が『新約聖書』にあるというのは、案外知られていない。

 知っている人ももちろんいらっしゃるだろうが、以下の話にとりあえずお付き合いください。



 イエスの十字架での死後、「クリスチャン」と言われる人々が出現するようになった。死んだ大工(イエス)を「神の子・救い主」として信仰するやつららしい。

 己を神に等しい者だなどと宣伝するのは、ユダヤ教の伝統からすると冒涜極まりない。そのイエスとかいう死人が美化されるのは、何としてでも防がねば——

 当時の権力者階級、宗教指導者階級はそう考えた。

 その役目を負う前線隊長として立ったのが、『パウロ』という人物だった。

 人一倍ユダヤ教に熱心だった彼は、クリスチャンと分かれば情け容赦なく牢獄にぶち込んだ。パウロは、脅しても痛めつけても信念を曲げない者の処刑に何度も立ち会うことになる。

 そのうちに、パウロの中にひとつの疑問が湧いてくる。自分は正しいことをしている、というその確信の中に影を落とす、ひとつの思い。



●なぜ、彼らはこれほどあの大工を信じる?

 どんなに迫害しても、ほとんどのやつが弱音を吐かない。

 そしてその数は、捕まえて苦しめれば苦しめるほど、どこかで増えていく。

 いったい何がある? 何が、ここまでの力を生み出す?



 ある日の事。クリスチャン殲滅のために、ダマスコという都市へ向かう途中ー

 パウロは、イエスと出会う。

「なぜ、私を迫害するのか。」

「あ、あなたは一体……?」

「私は、あなたが迫害しているイエスである」

 その時から、なぜかパウロは目が見えなくなった。



 でも、ある人の家に行け、そうすればすべきことが分かるとお告げを受け、その通りにしたところ、その家の住人(クリスチャン)の祈りにより目が開け見えるようになった。

 聖書文中には「パウロの目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになった」という描写がある。ちなみに今でも普通に使う「目からウロコ」という言葉は、ここから取ったものだ。

 パウロは、肉体的な意味合いで「目が見えるようになった」だけではなく、視点すら変わってしまった。「心の目も開けた」のである。

 その後、人々は大いに驚くことになる。

 こないだまでクリスチャンを迫害する側だったパウロが、今度はキリストを「救い主」だと告白してはばからず、世間に広めだしたからだ。これには関係者一同、開いた口がふさがらなかった。



 目からウロコという言葉は、「今までと違った見え方をすることができるようになる」という意味である。

 よくスピリチュアル実践者が、「目からウロコ」と言うが、それはちょっと理解がズレている。「分かったぞ!」という理解(納得)に至る「アハ体験」のことを目からウロコ、と単純に言い換えている人が多いような気がする。

 目からウロコとは、何かの意味が腑に落ちることではない。

 まるっきり間違いではないが——



●ものの見え方、とらえ方が変わってしまう



 こちらのニュアンスの方に力点というか、重心があるのだ。

 しかも、この言葉はほぼ「受動態」で使われる。

 自分の意志で起こすことはできない。

 ほぼ、「いやでも起こる」「意外にも起こる」というケースしかない。

「起これ~起これ~起こすぞ~」で起こることはない。

 意識の力を使って能動的に得れるのは、外の「モノ」「現象」しかない。

 それが世間で「引き寄せ」だとかなんとか言われているヤツだろう。

 気付きとか、意識的な何かは、あなたの自意識なぞではどうにもならない。

 もしあなたが、「私は、こういう気付きを求めた!そしたら来た!」と思うなら、ちょっと冷水を浴びせるようなことを言いましょうか。



●あなたが、「こうなりたい」と願ったタイミングの後で——

 たまたまその気付きが「来る」ことになっていただけ。

 そういうプログラム(脚本)だっただけ。

 決して、あなたが願ったから(原因)、それが来た(結果)のではない。

 目からウロコは、あなたの力で起こすことはできない。



 こう言うと、違和感のある人がいるだろうことも承知している。

「願ってそうなるんじゃなかったら、つまらないや。」

 それは、違う。

 何で、「願う → かなう」という方程式でしか、考えられないのかな?



 何かにフォーカスして、それを実現させようとする方法は、スコップで穴を掘るようなもの。

 もっとはるかにすごいのは、ただ「今」においてくつろいでおり、すべてを「そうであるだけ」と受け入れ、目の前のことに宇宙全体が込められているという意識で取り組む。

 その方法こそが、最高である。おまけに自然。ヘンな力みが要らない。

 ヘンな言い方だが、願いは「間接的」にかなえるのが良い。

 そんなことは日ごろあまり考えてないが、今という時間の連続を味わい受け入れ続けているうちに、いつの間にか何かすごいものが転がり込んできている。

 本当に、「アレッ?」という感じ。

 これまでの時代は、願いがかなう、というのが幸せの方程式だったかもしれないが、これからは「いつのまにか、考えもしてなかったすごいものが来る」のが幸せの方程式。

「執着を捨てよ」とは、このあたりの意味合いを言ったものである。

 めっちゃ皮肉な話だが、手放した方が得られる。何か新しいものをつかみたい時には、それまで持っていたものを手放さないと持てない。



 話がちょっとそれたが。

「目からウロコ」とは、パウロのあの事件が語源なら、こういう解釈もアリだ。



●今まで殺したいほど大嫌いだったものが、見え方の変化によって好きになる。

 好きにならないまでも、認めることができるようになる。



 視点の変化とは、水爆級の威力をもつ。

 そこまで、人を変える力がある。

 キリスト教を誰よりも熱心に迫害していた人物が、今日のキリスト教の基礎を作ったのだ。そしてその人物の書いた文章が、新約聖書のかなりの部分を占めている。

 私も、かつてはスピリチュアルではなくキリスト教を信じていた。

 でもある日、手違いで読んでしまった「神との対話」のせいで、目からウロコ現象が起きた。

 で、逆もまた真なりで——



●今まで大好きだったものが、見方の変化によって大して好きでなくなる。



 私にも、覚醒意識で見て「なぁ~んだこの程度のものか」と見切ることで、フォーカスしなくなった(時間を割かなくなった)事柄が、いくつかある。

 それまではエゴの力で、ボヤけた視力で熱病に浮かされたように「好き」だったものが、冷静な視点で見えるようになることで、その視点との落差で「冷める」のだ。

 何かが強烈に「キライ」な時。あなたは本当の「目からウロコ」体験をしていない。何かが強烈に「好き」な時、もしかり。

 本当の「目からウロコ」体験とは——



●究極的にすべてのものが同質・同価値・中立



 これが分かることである。

 だから、いったん人生観・世界観が超クールになる。他者の目からは、冷たいとさえ思われる。

 ただ、いったんそのベースがつくられたら、あとはこの世界とお付き合いして生きていく上でのキャラメイクが、改めて行われる。

 皆さんが筆者に会って「面白い」「優しい」「温かい」と言ってくださることがあるなら、それはキャラメイクされた私を見ている。その奥底には、なんであれ意味がなく、善も悪もないという透徹した冷えた芯がある。それを抱いた上で、確信犯的に楽しく、熱く生きている。

 目からウロコ、なんて言葉を安易に使いまくりながら、何かを批判したり正そうとしたりする人は、とんだ道化である。だって、そんなことができるということは、本当の「目からウロコ」を体験していない証拠だからさ。

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