わたしはアルファであり、オメガである② ~過去も未来も現在~

 わたしはアルファであり、オメガである。

 初めであり、終わりである。



 ヨハネの黙示録 21章 06節



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 私は、この宇宙における人間キャラの人生を、ゲームにたとえる。

 では、ちょっと具体的にゲームをやる状況を考えてみよう。



 今まさに、ゲームの真っ最中であるとする。

 確かに、「今ここ」あなたの状況が一番重要であることに間違はない。

 今直面している画面上の状況にどう対処していくか、それが最重要事項である。

 それを放っておいて、クリアも何もあったもんじゃない。



 でも、果たして大事なのは「今」だけだろうか。

 比率的には多くはないだろうが、先のことも念頭に置かないだろうか。

 そろそろ、何かの大きな選択の分岐点に近づくな、と認識した時。

 どっちへ行こう、ということをどこかで決め、それを意識しつつ現在の場面に対処しているはず。その意識上のプログラミングがあるからこそ、「今」の状況の連続に対処し続けながらも、トータルとしてある方向への「舵取り」ができるのである。



 また、考えるのは先の事ばかりではない。

 ある場面にさしかかった時、前回そのあたりで失敗したことを思い出す。

 ああ、その時はこうしてこうだったんだよな。じゃ、今回は——

 そうして、新しい切り口で対処することができる。

 整理してみると、ゲームをうまくプレイするためには、現在ばかりか過去も未来も大事なのだ。

 車で例えれば、現在がアクセル。過去がブレーキ。未来がシフトレバー。

 どれも、ゲームを進めていく上で必須なのである。ただ、「今」という要素の重要性が、他の二つに比べて若干勝る、というだけのことである。

 それなのに、過去や未来に意識をもっていかれることを「今ここじゃない」と言って過小評価する人がいる。悟り系の話題でよく言われる「今ここしかない」というのはその通りだが、だからといって過去や未来が幻想で、そんなことにフォーカスするべきではないというのは、行き過ぎだ。



 私としては、今現在に向き合い、感じることはまさに大切としながらも——

 過去や未来を思いっきり考えてもいいじゃん。そういうスタンスである。

 それの、何が悪い。

 


●過去や未来を「考えることができる」ということは、問題ない証拠である。



 宇宙の絶対真理としていけないことなら、そもそも起こすことができないはず。

 ゲームプログラマーの気に要らなければ、その内容はゲームプログラムに打ち込まれず、反映しないので、プレイヤーがどんなに力んで操作しても、起こせない。

 でも、何かが起こせるということは、そもそも開発者が「起こってもいいこと」としてプログラミングしたということである。

 あなたのエゴにとって都合の悪いこと、戦争や犯罪、人殺しさえも。

 もちろん、それはプログラミングされているので「起こる可能性がある」ということを認めているに過ぎないのであって、起こってほしいわけではない。

 起こる前なら防げるし、色々な手を打てる。

 しかし、ひとたび起こってしまったら——



●もうそれはそれとして、もう今と今より先を見据えたほうがよい。

 


 どんなにひどいことでも、1秒でも過ぎたら構わないほうがよい。

 もちろん、思い出してしまうのは仕方がないし、そのことについて考えてもいい。

 でも、そのことがあなたの今の感情に影を落とす結果になるなら、利口とは言えない。だから、過去や未来の事はさじ加減を考えながら向き合うのが良い。



 とても長い、長机があるとする。

 あなたは、その真ん中あたりのスペースで作業しているとする。

 さて、あなたは自分の作業しているスペースだけしか今意味がないから、目の前のスペースだけが机だ、と認識するだろうか?あなたの左右の端辺りは、「机ではない」と思うだろうか?

 そんなことはないはずである。自分が今使っている机のスペース以外の部分も、机であることには変わりない。「地続き」になっているのだから、全体でひとつの机である。

 時間性、つまり過去→現在→未来というのは、この長机のようなものである。

 私たちが今作業しているのが「現在」であり、長机で言う真ん中のスペースである。使っていない左はしのほうは、過去。使っていない右はしのほうが、未来。

 今向き合ってはいなくとも、机ではある。地続きだから。ゲーム進行状況として今向き合っているかそうでないかだけの違いだけで、本来的な価値は同じである。

 だからこそ、神(あなたの正体である超意識)は聖書において、こういうものだと宣言されている。



●わたしはアルファであり、オメガである。

 初めであり、終わりである。


 ヨハネの黙示録 21章 06節



 机の左端から右端まで、すべてが机の、そして私たちの正体である。

 ちょっと乱暴な分かりやすさで言えば、過去も未来も、すべてが「今」なのだ。

 ただ、幻想ゲームをする上で、目の前の「今」の重要性が他より上なだけだ。

 だから、「今」だけが大事で他はいらん、というのは何だかなぁ~なのである。



 全部、今である。

 過去のことを考えていても、その過去は実は過去ではない。今の一種である。

 別な切り口で言えば、わけだ。

(禅問答みたいで申し訳ない)

 ほ~ら、あなたはやっぱり今から逃げられない。

 だから、むつかしく考えないで生きよう。

 あ、過去に囚われた! とか。未来を勝手にシュミレーションして恐れちゃった、とか。そんなにまじめ人間ギャートルズにならなくもいい。

 だから、物事を考えるオススメな基準は、過去だから未来だから、今ここじゃないからダメだ、というのではなくて——



●過去を考えたいかどうか。

 未来を考えたいかどうか。



 つまり、~したいかどうか? その基準だけで単純に選択すればよいのだ。

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