冷たくもなく熱くもないなんてやめて! ~ニュートラル意識ばかりだとウンザリ~

 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。

 むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。

 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。



 【ヨハネの黙示録 3章16~17節】



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 スピリチュアルな流れのひとつに、「中庸意識 (ニュートラル)」を重要視するものがある。

 分かりやすく言えば「中立」。物事を偏りなく見る視点。

 今日の話題は、ズバリ「それは本当に手放しで良いことか?」という疑問である。



 我々人間は、常に二者ある対照的な物事のうちのどちらかに加担することを余儀なくされる。

 昔の例で言うと、源氏か平家かとか。

 現代だと、どの政党を支持しているとか。どこの球団のファンかとか。(笑)

 現代と昔の違いは、昔だと選択肢がほぼというか、まったくなかったということ。

 住んでいる場所の領主の立場によって、戦の勝ち負けで農民たちは勝手に扱われた。彼らは領主やどこの味方とか、そういうのを選べない。勝手に他へ移ることもゆるされない。身分だって、どんなに頑張っても自分の生まれた時のものを越えられない。(豊臣秀吉などの例外はあるが、めったにないと考えていい)



 第二次大戦中も、日本人に生まれれば日本が間違っている、ドイツの味方はいいことではないと思っても、それを主張したらえらい目に遭った。いくらがんばっても、置かれた立場から逃げられなかった。

 それを思えば、今はいい時代になったのかもしれない。支持する政党は自由だし、好きな球団を変えても誰も文句を言わない。(熱心な阪神ファンなら、あなたが寝返ったら文句のひとつも言ってきそうだが)

 日本が気に入らなければ、海外へ移住だってできるのである。



●宇宙は、常にバランスである。シーソーゲームである。

 


 生まれた場所、身分によって外的なものを選べない環境にいた昔の人は——

 外を変えられない分、誰も干渉できない精神的な部分で、強く自由を求めた。

 どこに生まれようが、それによって縛られなくなり外的な面での選択肢が増えた現代人は——

 とりあえずの脅威がなく生活も何とかなるので、逆に心が縛られることを悪く思わなくなった。むしろ、色々決められている方が心地よくなった。

 無秩序の混乱の時代よりも、全体として内的なものへの渇望が減った。



 何々、そんなことはない?

 人々はスピリチュアルに目覚め、そういうセミナーへの参加も盛んになった?

 なにをおっしゃる、うさぎさん。

 こんなもの、恵まれない時代の「求道」と比べたら、おままごとみたいなもんだ。

 所詮、セレブの遊びだ。安全が保証されている中での、ヒマ潰しだ。

(その「安全」というのも、実はもろい幻想なのだが)



 スピリチュアルで言う中庸とは、きっちりと物事のド真ん中、50対50のぴったり隙間、という厳密なニュアンスではないという。そういう、なんでもかんでもピッタリ真ん中を取ればいい、ということではなく、常にその状況に応じて、先入観を排し柔軟に物事を見る、という程度のことである……らしい。

 仏教における「中道」とは少し意味合いが違うようである。



 人間が今までの歴史で、何でも二つに分かれて争うのにだいぶ懲りてきたので、このような中立な在り方(ニュートラル)にあこがれる流れも少なからず出てきた。

 かといって、仏教に興味をもつ人が増えて仏教ブームだとか、孔子の論語を読むのがブームになったということはない。宗教がそのお役目の限界に来た時代の流れからか、それほど堅苦しくはない「スピリチュアル」や「自己啓発・スピリチュアル系心理学」に、その人気は流れることになった。



 私個人は、この「ニュートラル」と呼ばれる境地でしょっちゅういることがいいことだとは思えない。もちろん「よくない」とは絶対言わないまでも、「そうしょっちゅうは必要でない」と言いたい。

 ケーキヤクッキーを焼く時、「ベーキングパウダー」というものを入れることがある。あれは、必要な量はものすごく「ちょっと」である。

 たくさん入ってしまったら、もう全体は台無しである。

「ホンマ、こんなちょっとで意味あるの?」素人なら、そう考えてしまうなくらい少ない量しか、製菓において使わないのがベーキングパウダー。そう、例えちょっとでも、十分な働きをする。

 中庸、という意識状態は、完全達成していつだってその状態でいてられる、とまでするものではない。

 そんなもの、人間ではない。

 マシーンだ。絶対に過ちを犯さない、というだけの、血の通わないマシーン。

 それは、行き過ぎだ。

 でも、その「行き過ぎ」を行き過ぎと思わず、人間なら誰しもいつかは達成したい「理想」であるとして、今も目指して頑張っている人種もいるのである。



 この、「ニュートラル」という在り方と一般に言う「悟り」とは、親和性がある。

 厳密に同一のものを指しているとは言い難いが、親戚同士ではある。

 だから私は、「悟るな」と言ってきた。

 正確には「悟ろうとするな」。悟ろう、として悟れるものではないので、イヤでも悟る時は悟る。その場合は不可抗力で仕方がない(シナリオに選ばれた)のだが、まだその運命が訪れていないのに、物好きにもあなたの側から進んで「悟りたい」など、狂気の沙汰だと言いたいのだ。



 目の前に、中庸を達成した人がいるとしよう。

 私は、その人物と友達になりたくない。無関係でいたい。

 身近にいたら、避けたい。

 だって、そんな人と遊んでも、クソつまらないから。

 多分、会話してたら殴ってやりたくなる衝動に駆られるかもしれない。

 殺意すら湧くかもしれない。「もしもの世界」で、もし世界中の人が「中庸意識」を達成したらこの世から消えそうなものが、いくつかある。



 ①漫才・お笑い



 害のない範囲で、何かを小ばかにして笑うネタ、自虐ネタも多い。

 お笑いとは、大なり小なり誤解や偏見を逆手に取ることで成立している。

 そういうもので、一切笑えない人たちばかりになる。



 ②面白いマンガ・ドラマ。映画



 ①とほぼ同じ理由で、世界は文科省推薦のような、害のない作品で溢れる。

 何かを非難したり、敵対したりできないので、そんな人たちの作る作品はパンチも刺激もない。

 もしあなたに、「そんな低俗な刺激の世話にならなくても、幸せになれるのですよ。楽しめるのですよ」という言葉が出てくるなら、末期的症状。相当スピリチュアルにやられている。



 ③恋愛



 人を偏り見ることの究極が、この恋愛という形である。

 だから、人類が皆ニュートラル(な視点でばかり見る)ようになったら、(人類がこれだけいる中で)この人が特に好き、とは言えなくなる。だって、みなすべての事情と価値が分かるから。差を付けられない。

 人間は、恋愛できなくなる。また、そういうものを扱ったドラマや小説の類もなくなる。



 まぁ、これは極端な話だが。

 ベーキンングパウダーを入れ過ぎた世界がどんなものか、ちょっと想定してみた。

(つまり、中庸意識にあふれた人間社会というもの)

 そりゃ、便利で合理的よ。すべてニュートラルで見れるようになると。

 傷付かなくなるし。逆に人を傷付けなくなるし。

 一番最悪な世界は、「ある程度の数中庸意識の人間と、ある程度の数の普通人が混じり合って生きている世界」。その世界では「清い人、間違いのない人(中庸意識)ほど、他者(普通人)を傷付ける」。

 これは皮肉なことだが、普通人が完全中立の人と話すと、あなたの今がその人物を通して鏡のように映し出されるので、気分が悪くなる。場合によっては、憎悪や殺意まで湧く。私が先ほど、「そんな人が目の前に出現したら、殴りたくなるかもしれない」 と言ったのは、このことである。

 イエスが十字架にかかったのも、原因の一端はこのへんにある。



 逆に攻めてみよう。



●偏りに生きる、ということは——

 確かに一面で争いや誤解も生む。

 でも、一方で様々な情熱や美しい人間ドラマも生む。

 すぐれた文学、音楽、芸術を生む。

 それらを支えている影役者は、「偏った視点」である。



 この二元性世界へは、そもそも完全中立な存在が『偏りを夢見て』足を運んだ。

 わざわざ、リスクを犯して作った。

 だから、偏りでいいんではないか。

 ただ、時々は「バランス」を生みだして是正してあげる。

 私が考えるに、あなたの意識が完全中立を保てるのは、1日のうち5秒あればいい。5秒の継続が一日一回ではなく、1秒の中立意識状態が、5回ということ。

 それで、ベーキングパウダーとしては十分役に立ってくれる。

 あなたが朝から晩まで中立意識などでいたら、有名人にでもなるか「名覚者」にでもなって揺るがない地位でも築き上げないことには、まず「嫌われる」。

 この世界で「偏らない」なんて、普通に生きるのには向かない。

 人間的魅力の成分の70%は、「ユニークなまでの偏り」である。

 でも、宇宙はバランスだから、偏りの中に時として「ハッ」と中庸を思い出す程度が、適度に快適な人間生活を送れる。間違っても、修行などして煩悩を、エゴを取り去って完全中立な意識を獲得しよう、なんてやらないでほしい。

 


 この世とは違う、一元性の望みに近付いていこうとすることは——

 この世基準では、不幸になることである。

 悟りたい、ということは一部の例外を除き「不幸になりたい」と言っているようなものなのである。

 最初に紹介した、聖書の言葉。

「熱いか冷たいかどちらかであってほしい」というのは、この世界には偏りを味わうために来たのだから、あなたの素直な思いから「好み」や「あなたの立場からの意見表明」 をハッキリしてほしい、ということである。

「熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そう」というのは、ニュートラル(中庸)などあちらには当たり前で、珍しくも欲しくも何ともないんだから、要らねぇからやめろ、ってこと。熱くもなく冷たくもない、とはどっちつかずの中庸(中立)を指す。

 この世界の創造者の大好物は、人の生み出す「感情(エネルギー)」である。

「中庸(ニュートラル)意識」という境地は便利だし、間違いも起きにくいが、エネルギー回収業者の好物ではないのである。料理としては味気がないのだ。

 中立ほど、感情エネルギーを生まない在り方はない。

 それを重要視する宇宙の管理者側からしたら、悟った者など「歓迎されざる客」なのだ。

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