命を惜しまない、ってどんな境地? ~児童文学「ジムボタンの冒険」に学ぶ~

 兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼(悪魔)に打ち勝った。

 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。  



 【ヨハネの黙示録 12章11節】



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『ジムボタン』という、感動冒険物の古いアニメがある。

 原作は、ミヒャエル・エンデの「ジム・ボタンの機関車大冒険」。

 主題歌を大御所のミッチー(堀江美都子)が歌っており、もはや名曲の域である。

 著作権云々の問題があるのでそのままを紹介できないが、そのアニメのエンディング曲の歌詞の中に、次のような意味合いの部分がある。


 

●愛のためだから、ジムは命を惜しまない



 子どもの私を本当にアニメ好き人間に変えた作品、というと、宮崎アニメの原点とも言える『太陽の王子 ホルスの大冒険』と、あとこのジムボタン。

 あえてそう言えるほど、この作品の私への影響は計り知れない。



 私は、これまで何度も「ジムは命を惜しまない」という部分だけ口ずさんできた。

 一体、どういう境地なんだろう、と思索し続けてきた。

 恋をして好きな女性ができたり。子どもができたりした時。

 もしかして、こういう感情かな? こういう意識のことを指すのかな? と思ったりした。近いが、でも正確には違った。

 でも最近、「命を惜しまない」とはどんな心境か、に関する私なりの定義が、更新された。



 昔、私は誤解していた。

「命を惜しまない」という言葉に縛られていた。

 命を惜しまないってすごいな。どうやったらそんな風になれるんだろう?

 そこにフォーカスし続けているうちには、分かるはずがなかった。

 なぜなら、「命を惜しまない」は、素顔を隠す仮面のようなものだから。



 命を惜しまない、というのは意味のない言葉である。

 命を、惜しまない。そういう行為は成立しない。

 ただそれだけをすることはできない。

 それは、ある状態に置かれた人間から出る「副産物」である。

 意図して命を捨てようとするのではなく、結果として「命を惜しまない」という状況に自然になるだけであり、決してその状況だけを意図的に目指すことはできない。というか、無意味。



 そう。ジムは命を惜しまないんではない。

 あるジムの状態があるから、その流れの帰結として「命を惜しまない」と見えるだけ。さて、「命を惜しまない」を自然に生みだす意識状態とは??



●何でもいいが、ある何かの願いをを強烈に成就させたい時。

 他の、どんな願いや希望にも勝ってそのことを成し遂げたい時。



 本人はいちいち自覚しないことが多いが、結果として「自分の命を保ちたいという欲求(平時はこれを何かが越えることはない。最上の欲求である)を、ある願いを達成したいという願いのほうが勝ってしまう」場合。

 そうなった人物は、自覚的に「命を惜しまないぞ!」と考えたりすることはまれ。たいがい無自覚のうちに「命を惜しまない」という行為は成される。



 結局、「命を惜しまない」という行為をすることは不可能なのである。

 他はどうなってもこれだけは、という意識状態は、タメもなくややこしい葛藤もなく、迷わずある行為をさせてしまう。それを他人が見た時に、「命を惜しまない行為」として見える。

 ただ、本人は他人が「命を惜しまない行為だ」と賞賛するほどに、すごい決意や立派な動機があったとかとは思っていない。ほぼ反射的なものである。

 その瞬間に、命を惜しまないようにしようとはできない。

 ごまかせない。日常のその人の思いが正直に出てくる。

 テストの答え合わせのようなもので、その時に小細工はできない。

 日常、愛情の行かない子どものために、いきなり自分を犠牲にしてかばって死ぬことはできない。逆に、常日頃子を愛おしく思ってきた日々があれば、いざという時でもややこしいことは考えないで、すぐに身を挺してかばえる。



 私もそうだったが、日常平和に生きれている人は「命を惜しまない」というところにフォーカスしてしまうのだ。身近じゃないからそれってすごいとか、どういう気持ちなんだろう、とかって。

 でも、ポイントは「命を惜しまない」行為そのものじゃなかった。

 どれだけ、「願いが強いか」というただそれだけのこと。その願いの強さが、自らの肉体生命維持の欲求をも超えた時に、自動的に出てくるもの。

 99%、無自覚なもの。

「私は命を惜しまないぞ!」なんて言ってる様子を想像したら、なんかウソ臭いし、冷める。



 もちろん、これは自殺とは明確に区別される。

 自分が死んでも何かを守る、というのは自殺ではない。それは逆に「生きる」ということである。

 自殺とは、他人ではなく自分を守る行為である。自分を楽にしてやる行為であり、何かから自分を解き放とうとする行為、それが自殺。

 細かいことを言うが、たとえば貧困家庭の父親が家族のためを思って、自分が死ぬことで保険金が降りるように死ぬことがあるかもしれない。(もちろん、あからさまなら保険会社に認められないので、うまく画策する) じゃあそれは、「家族のため」 なんだから、この定義だと自殺じゃない、ということになるの? と突っ込まれるかもしれない。

 うん、それは家族のためというのは名前ばかり。それはやはり自分のため。

 だから、自殺。



 命を惜しまない、とは自殺ではない。

 一番良いのは、他人も救い自分も生きのびることである。

 ただ、この世界では色々な状況や可能性があるため、そのようにはいかないことも多々ある。そうした状況で、我が身に代えてでも……という判断が必要になることが起きる。

 そうやって人が死んでも、それだけの思いを注がれて守られたその人物の心には、一生消えない 「刻印」 が残る。それは——



●人ひとりが命を懸けるに値するほど、お前は大事にされた。

 


 その人物は、くだらないことで自分を粗末にしたりはしなくなるだろう。

 だって、亡くなった者の命も、『接ぎ木』されたんだから。

 もう、別次元視点で見たらかばわれた人の命はその人だけのものではなくなっている。気付かない、色々な魂を抱えて、今という人生を生きる走者は走っている。

 そういうことを思うようになってからというものの、私は「命を惜しまない」とはどういうことかを考えなくなった。もう、考える意味がなくなった。

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