まったく知る必要のない無駄話 ~究極存在とこの宇宙の創造主との関係~

 ●女と竜


 また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。

 女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。

 また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。

 これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。

 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。

 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。

 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。



 【ヨハネの黙示録 12章1~6節】



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 皆さんには、子どもの頃経験がないだろうか。

 たとえば、親からお使いを頼まれ、お金と買うものを書いたメモを渡された。

 でも、色々なものに興味を持ったら夢中になる子どもの悲しさで——

 道に迷った上、お金もメモも落としてしまった。

 子どもの幼い頭脳なりに、失敗したということ、親の言う通りにできなかったことが分かる。

 想像の中で母親が、鬼のような顔になる。牙が生え手には槍のようなものを持ち、フハハハと悪魔のように高笑いする。

 で、「お前を食ってやる~」なんて迫ってくる。

「母ちゃん、ごめんよぉ! もうお金無くさないから! 気を付けるから~」

 泣いて逃げ惑う。まるで、怪獣映画で逃げる街の人のエキストラ。



 笑っちゃいけない。

 子ども心に、大真面目。

 きっと、これを知ったらお母さんは大笑いである。

 確かにお金を落とし、ちゃんとお使いだけに集中せず道に迷ったことを褒めることはなくても、落としたお金なんかより子どもの無事の方がもっと大事だ。

 残念ながらその辺の事情は、その子が大人になるまでは良く分からないはずだ。



 この一見訳の分からない聖書のお話に登場する『女』とは、この世界を創造したやつである。

 これは、最高位『くう』の次席で、二番手。

 お母ちゃんにお使いを頼まれて、全然関係ないことをして全然目的を達さなかったように、この二番手は 「永遠、絶対、完全の静寂」「ただ在る、というだけの一元性」を守るお使いを放棄し、親には言わず勝手に「二元性世界」を創造した。

 もちろん、親に黙ってこっそり作ったそれは、実在などではない。幻想である。だから、悟り系スピリチュアルではよくこの世界が幻想だとか言われる。

 で、二番手は「やらかした」あとで、子どもみたいに怖くなった。

 お母ちゃんが「悪魔」みたいになって失敗を責めてくる想像のようなものをしてしまった。

「ああ、どうしよう! 母ちゃんに叱られる!」

 この聖書の文章の場合は、面白いことに想像だけでなく本当に一番手を「悪魔そのもの」にしてしまっている。「火のように赤い大きな竜」とは、一番手の「空」のことである。

 本来は、お金を落として子どもを鬼のように責めなどしない優しい母さんでも、純粋な罪悪感に囚われた子どもには、ものすごく悪い想像ができてしまう。



 つまり、聖書の黙示録とは、「悪魔がこの世界を攻めてくるが、最後は神の守りによってこの世界が良くなる」という話ではなく——

 実はこの世を襲う悪魔とは、この世界の最高位「くう」のことである。

 そもそも間違っているのは二番手であり、本来あるべきでないこの世界を最高位は消しに来る! きっと怒っているはずだ、怖い!

 でも皆さんご覧の通り、この世界は今日も何事もなく(そうでもない?)続いているし、すぐに消される気配もない。こちらが心配するほど向こうは怒っていない。むしろ、今のところ関心がないといったところだろうか。

 でも、いつまでもという保証はない。だから、罪悪感でひとり相撲を取っている二番手からしたら、「いつか母ちゃんに叱られる」的な被害妄想を持ってしまったようだ。だから、こんな「竜がこの世界(女)を目の敵にし、しつこく付け狙う」 というたとえ話になった。



『身に太陽をまとい、月を足の下にし』とは、太陽と月(二極)を身にまとう、すなわち二元性の証し。だから女とは、この世界そのものを指す。(二番手も含め)

 頭には12の冠とは、人間のバリエーションを指す。きっちり12タイプの人間がいると考えるのは早計。12とはあくまで象徴であり、肝心なのは「人(人間キャラ)は個々で違いがある、ユニークな存在」程度のことである。



『竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。

 竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり——

 産んだら、その子を食べてしまおうとしていた』



 これは、二番手の被害妄想である。

 そんなことはまだ起こっていない。

 お使いに失敗した、子どもの頭の中だけで起こっていること。

 これを「幻想」と言わずして、何を幻想と言うのか?

 母ちゃんに対して、勝手に怖い想像を働かせているだけ。



『女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。』



 キリスト教では、この男の子を「イエス・キリスト」だと考える。

 男の子とは、女(二番手)が生んだこの世界の全構成員、すなわち我々。

 我々が、くうにはない(本来の存在にはない)「私(わたし)」 という認識、すなわち自我(エゴ)をもつに至った。(もちろん、夢の世界の話でだけだけど)

 子どもなりの、微笑ましい抵抗である。「母ちゃん、確かにお使いはうまくいかなかったけど、こっちにだって色々事情があったんだぞ!?」 とちょっと逆ギレチックにというか、ちょっとした反抗期というか……

 だから二番手は、罪悪感から、「いつか負ける」からと合理的に考えて降参せず、できるだけ突っ張って自分の「正当性」を虚しくも主張しようとした。

 間違いを、押し通そうとした。

 どっかでダメなのは分かっている。でも、時間を稼ぎたい。

 そうして生まれたのがこの世界であり、「まだ」続いているこの世界である。

 で、人類は地球において玉座(生態系の頂点において地球を治める)についた。その玉座にふさわしい責任を果たしているのかどうかは、ちと怪しいが。



『女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。』



 くうは、女をすぐに追い詰めて処分をしなかった。

 立てこもり犯にすぐにSWATを突入させず、様子を見て泳がせるようなもの。

 1260日とは、数そのものに重要な意味はなく、この宇宙の有限な寿命である。

 その日まで、我々のこの世界の物語は続いていく。

 いつかは終わるが、正確にいつかは誰も知らない。

 ただ分かっているのは、母ちゃん(空)は、まだこちらをすぐにどうこうしようという傾向はないということだけ。親の言いつけに背いて、反抗して生まれたこの世界が存在し続けているということ自体を考えると、我々から見てそれは「愛」であると解釈してもいいのかもしれない。

 1260日間養われるという場所と時間は、直接創造主の二番手ではなく厳密には「最高位」の計らいかもしれない。

 もちろん、向こうには自発的意思がないので、こちらの解釈における「結果的にそう見える(愛だと感じれる)」ということでだが……



 このお話は、人が普通に、幸せに生きていく上でまったく知らなくていい無駄話である。

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