黙示録に書かれている災害は起きない。だってこれは、ただの悪口の羅列だから!
第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就した」と言った。
そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。
あの大きな都が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々の町が倒れた。神は大バビロンを思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった。
すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。
一タラントンの重さほどの大粒の雹が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚だしかったからである。
【ヨハネの黙示録 16章17~21節】
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聖書の最後の最後に載ってるのが、「黙示録」と言われる文章である。
この書物は、キリスト教徒が信じてるだけでなく、予言だとかオカルト的な話でも結構引き合に出され、題材にされることの多い文書でもある。
色々と恐ろしいことが書かれており、読んでいるとなんとなく今の時代のことのような気がするので、恐れる人も少なくない。
一応私の見解を言っておくと、黙示録は予言書ではない。
未来を透視したり、言い当てようとしたものでは全くない。
黙示録に書かれているようなことが起きる根拠も理由も何もない。
たとえ人類が愚かで、滅びる道を歩むとしても、それは黙示録の内容とはまったく関係ないところで、自己責任でそうなるだけのことで、別に「予言が成就」などということではない。
だから、こんなことが起こったら怖いと心配することはない。
この内容は、お上に隠れてお上を笑うためのお話なのだ。
ユダヤ民族は、ローマ帝国の支配下にあって辛い目に遭っていた。
それは、イエスの生前も、イエスの死後も変わらなかった。
コンスタンティヌス帝によってキリスト教が国教として認められるまでの道のりにおいては、クリスチャンたちに対する扱いは、そりゃひどいもんだった。皇帝ネロなの逸話が有名である。
ユダヤ人、特に直接の迫害を受けていたクリスチャンたちにとって、ローマ帝国(権力側)は「悪魔のようなやつ」と言っても過言ではなかった。
でも、ローマの悪口を言おうものなら、国家権力に捕まってしまう。
なら、人々はどうしたか。
●ローマに分からないように、ローマの悪口の話を書いた。
黙示録とは、実はローマの悪口である。
怪獣とか龍とか大淫婦とか悪魔とか、それらは全部ローマ皇帝や役人たちである。で、地球の終末かのような大惨事(災害)の数々は、「お前(ローマ帝国)なんてこうなってこうなって、メッチャメチャのギッタギタになってしまえ!」という、幼稚な悪口である。名指しでハッキリ言えないから、ユダヤ人だけ「これはな、これのことだぞ!」という物語を読み解く情報を与えておいて、皆で語り継いで憂さ晴らしをしたのだ。
当然、ローマ側は意味が分からないので、「変わった小説が流行ってやがるな」程度の認識だったろう。
黙示録とは、おおっぴらにいじめっ子の悪口を言えないから、分からないように他の何かに例えて言うことで、自分が安全なように悪口を言ったもの。
だから、皆さん。黙示録の内容が実現するのでは? とか怖がらなくていい。
むしろ、天変地異ではなく人間が自身の愚かさによって「自滅する」ことのほうを恐れたほうがいい。
●人類がいくら愚かしくても、罰する神などというものはいない。
何か悲劇が起こっても、すべて「自業自得」システムである。
もちろん、個人レベルでは身に覚えのない、その人のせいでない「理不尽な」ことが降りかかることがあり、そういう場合「自業自得」とは思えない。
たとえば、「いい人」がたまたま無差別殺人の現場に居合わせ、巻き添えを食うような場合。
申し訳ないが、より高次の存在は、我々を個単位では見ない。
全体を、ひとつの生き物として見る。
だから、全体 (人間というひとつの集合体) に起きたことの報いを与えればよく、「体のどの部分が」なんてことは考慮しない。
これが向こうとこちらの認識のズレであり温度差である。この溝は永遠に埋まらない。ミクロ単位では「理不尽」だが、マクロ視点では理に適っている。
で、あちらはマクロ視点しか認識しないので、血も涙もなく思える。
「悟り」というものは、そこのところの「エゴ」を超えさせる。
誤解してほしくないが、「超える視点」を持てるだけというのが正解で、感情的にも完璧に「超越して乗り越え、何も矛盾を感じないで済む」というのとは違う。
だから、人として中途半端になる。こっち(肉体界)にも片足があり、あちら(マクロ視点の高次視点)のシステムも理解するので、板挟みになる。
何が起ころうが「ただ起きているだけ。問題はない」と言ったら、普通嫌われる。アンタ、おかしいんじゃない? と言われる。よほど、それを言った人物が「有名人覚者」として認められてなければ。
書いてある災難はどうでもいいが、今日紹介した文章で大事なのは 「雹が降った」くだり。
1タラントンの雹が降り注いだと書いてある。1タラントン=約26kg。
ゲゲ。まるで隕石やん!
ちょっとした雹が降っても、車のボディがボコボコになったり、損害この上ない。それが天から降り注ぐのだ。そりゃ、島も逃げ去り山も消え失せた、という表現はそれほど大げさでもない、と言っても構わない。
で、そんな中人々はどうした、と聖書には書いてある?
●人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。
その被害があまりにも甚だしかったからである。
気持ちは、理解できる。
誰だって、自分がそれを受けて当然な悪をしたような覚えがないなら、納得できないだろう。理不尽と怒るだろう。神というものがいるなら、罵りたくもなるだろう。
でもそれはさっきも言ったように、人間全体が責任を負うことなのである。
結果、分かりやすく責任がある群れじゃなく、罪もなく見える部分がとばっちりを受けるという現象も、残念ながら起きる。でも、この「どこに白羽の矢が立つか分からない連帯責任システム」では、人間という個体キャラはその特性としての「弱さ」を発揮してしまう。
理不尽が人に降りかかると、世界を呪いたくなる。
もしも我々を創りどこかから見ている「神」のような存在がいるなら、一体何やってんだ? とも問い詰めたくもなる。だから、「成熟」が課題なのだ。
おれのせいだとかせいじゃないとか——
何で私が、とか何であの人が……と言ってるうちは、人類は前進しない。
すべて背負っていく境地。どこに責任が、を考えるステージを超えて、起きること皆を自分のことと受け止め生きる。
言うは易いが、簡単ではない。
背伸びしても、無理が生じる。
もちろん、感情的な納得はまた別問題である。
心から何でも納得し平常心、なんてことはできなくていい。ただ 「それでも受け止めていくんだ」という意識の底辺を支える屋台骨としての「覚悟」のようなものがあれば、感情的には一時イラついたり悲しんだりしても、なんら「ダメ」ではない。
むしろ、そうならないヤツがおかしい。
それをも超越することが「悟り」なら、そんなものくだらない。
悟りとは、個体の別関係なく、人生に起きること宇宙に起きることすべて「自分のこと」として見れる視点であり。その視点さえあればよく、最終的にそれを採用できさえすればよく、完璧に葛藤なく判断できるということは、きれいにできなくともいいものである。
心に一切の迷いや葛藤すら湧かない境地というのは、高望みのしすぎである。
いや、むしろそれでは人間としての用を成さない。
雹が降ったや災害というのは、高次元という縦軸でなくこの世ゲーム世界という横軸視点で見ると、何かの因果の結果である。自分たちのしたことや、意識状態の招いた結果かもしれない。
だがそれを、なぜウチの車が事故に巻き込まれないといけない? とか、なぜうちのなんとかちゃんがケガをしなくちゃいけないの? と言っていては、気持ちは分かるが先の新時代へ進む試練としては負けることになる。
この先、何が起きるかはっきり言って分からない。
今幸せなあなたからは想像できない事態が降りかかる可能性もある。
「自分に関係ない」と思ったらダメだ。
今後、社会やあなた個人に何が降りかかっても、受けとめよ。
ただ、きれいに受け止めなくていい。もがいても苦しんでもいいから、最後の最後受け入れられれば、過程は問わない。
手に手を取り合って、互いに責任なすりをやめて、日々進んでいくしかない。
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