ノアの箱舟の話 ~聖書の文章は退屈なので映画で!~
この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。
神は地を御覧になった。
見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
神はノアに言われた。
「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。(中略)わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」
旧約聖書 創世記 6章11節~7章1節 (抜粋)
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神とは、全知全能ではないらしい。
「悔いる」んですから。
●わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
わたしはこれらを造ったことを後悔する。
創世記 6章7節
しかも、神の力で人類を善の方向へ……!という方面では奇跡は使えないようだ。
とりあえず、ノアという善人とその家族を除いて全滅させてしまおう、というのが神の計画。
でも、善人の子孫はみな善人だとでも神は思っているのだろうか。
だとしたら、よっぽど頭の悪いやつである。結局、人が増えたら同じことなのに。
後に神は、神の子イエスという、罪のない汚れなき命を犠牲にすることで、全人類の罪を背負わせ、救いの道を開いた(らしい)。何で、何かを犠牲にしないと人類を救えないのか?
もっと冷静になれば、人のために我が子を犠牲にできる親って!?
どんなに高尚な境地なのか知らないが、そんな親になりたくないものだ。
っていうか——
●他人の代わりに、ごはんを食べてあげることはできない。
他人の代わりに、トイレに行ってあげることはできない。
イエスによる一方的な贖罪の成就(これを『福音』と呼ぶ)を主張するキリスト教信者たちは、そんな当たり前のことが分からない。
とにかく、神というやつはかなり「不自由で、融通の利かないやつ」みたいだ。
聖書本文は味も素っ気もないので、一大スペクタクルとしての「映画」で楽しむのがよい。で、肝心の映画 『ノア 約束の舟』は、聖書の記述に忠実な作品ではなく、かなり監督(脚本家?)の拡大解釈が入ったものになっていた。聖書のノアの物語とは、だいぶ違うものになっている。
以下、私が鑑賞上引っかかった箇所は——
●ノアの祖父は、箱舟に乗る、乗らないの意思確認や会話もなく、置き去りにされている。これって、もう最初から見殺しのつもり?
●番人(堕天使)は、過去の失敗のゆえに神に呪われた存在であるが、箱舟に乗ろうと駆け寄ってくる人間を殺しまくることで、それがプラスポイントにでもなったのかきれいな姿になって天に帰っていく。(この場合、神の計画に反することをしている者に対してなら、人を殺すことさえ良いことになる??)
あと、聖書と全然解釈が違うのは、ノアの神の計画に対する認識である。
なんとこの作品では、世界の動物を救った後、ノアの家族は死んで地上には動植物だけになり、地球は平和になるという理解である。悪さをするのは人間だけなので、人間が全部滅びることが神の意志なのだ、とノアはとらえた。
だから、次男のハムが好きな女の子を箱舟に乗せようとしても、ノアは拒否した。
子孫など作ってはいけないからだ。
長男のセムの嫁は、不妊の体と言われていたので、ノアは安心していた。
でも、奇跡的に子供を身ごもった。男ならばいいが、女の子ならば赤ちゃんを殺そうとした。
箱舟で生き残ったのは——
・ノア(高齢)
・ノアの奥さん (高齢)
・長男セム (男)
・長男の嫁 (不妊。赤ん坊を生む心配なし)
・次男ハム (男)……彼が連れてきた嫁候補は、ノアが見殺しにしたため死ぬ
・三男ヤフェテ (少年)
これだと、血筋が続いていく可能性はない。
だから、安心して自分たちを最後に人類は心置きなく全滅できると思ってたのに!
不妊のはずの嫁が妊娠しちゃったから、さぁ大変。
この後、とても後味の悪いドラマがドロドロに展開していく。
気が滅入るだけの映画である。結局どうなったかは、あなたがこの作品に縁があるなら、ご自分で確かめてほしい。
こんなに家族が崩壊して、互いが傷付け合ってまで守らねばならない神の計画って、何? イエスも言っているではないか。
●安息日(休日)は、人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子(素直に「人」と理解していい)は安息日の主でもある。
マルコによる福音書 2章27~28節
一番守られるべきは人であって、そのために、世界が存在するはずである。
極端な動物・環境愛護主義者(ノアのように人が全滅しても地球が助かればOK、とまで考える人)と私は、一生話が合わない。もう、説得はあきらめる。その世界でやってもらったらよろし。
一番議論を呼びそうな点は、ここである。
●人間は本当に、この世界(自然)を破壊する悪者に過ぎないのか?
人間が地上から消えて動植物だけになったら——
本当に、神が望む平和な理想世界が来るのか?
私は、こういう考え方は単なる『自己卑下』だと思う。
謙虚、なのではない。こんな考え方、「謙虚」という言葉に失礼である。
私が一貫して、著作物で言ってきたことは何か。
●あなたは、宇宙の王である。創造主である。
あなた以上に大事な存在は、あなたの宇宙にない。
何よりもあなたが、最優先される。
動植物も同じ命、という発想は、良いものではあるが使いどころを誤ると諸悪の根源になる。
人を必要以上に縛り、裁き、争いの種を生むガン細胞となる。
マリオゲームでは、マリオが一番大事である。
ブロックを崩しては、可哀想か? クリボーやカメを踏んずけては、可哀想か?
じゃあ、マリオがそれらを守るために我慢して、何も殺さず何も破壊しないか?
マリオのために、ゲーム全体がある。
人間のために、すべてがある。
もっと言えば、あなたのために他人も世界も在る。
この映画を見て、(まともな神経した)神様なんてのはいない、って気付けたらめっけもの。
宇宙ではすべての可能性が無情に、機械的に起こるだけ。
だだ、我々人型キャラには思考や感情があり、色々考えたり思ったりできるので、その機能を、粛々と目の前で起こる出来事に対して使っていくことだけが、我々のすることである。
愛の神、正義の神がいるという前提を絶対に譲らずに、この世界のからくりを説明しようなんざ土台無理なのだということに、西欧社会も我々も、いい加減気付いてもいいんじゃない? と思うのである。
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※この記事は、別著『スピリチュアル映画評論』にも掲載されています。すでにお読みになった方には重複しますが、ご容赦ください。
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