「渇く」とはどういう意味? ~この世界には、意味付けをしにやってきた~
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。
ヨハネによる福音書 19章28節
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よくある笑い話で——
メガネを必死に探しているが、見つからない。
はて、どこにいったかな……?と考えていて、驚愕の事実に気付く。
実は、メガネをもうかけていたことに。
他人事としては、これほどおバカなことはない。
でも、実際にこの体験をした人にしたら、本当に大まじめだったのだ。
本気で、メガネがどこにもない! と思ったのだ。
でも、実は最も近い場所にそれはあったのだ、というオチである。
その、簡単な真実に気付くまでは、探し続けるのだ。
いわば、真理探究というのもそんなものではないだろうか。
宗教も、スピリチュアルも探し求めてきたのは真理であり、本質を言い当てた内容。いつでもどこでも誰にでも、例外なく通用する事柄。
そういうメガネを、探し続けてきた。
で、探し求めていたメガネは実は外に探してもムダで——
「あっはっは。メガネ、かけてたじゃん。そりゃ、いくら探してもないわけだ! こんなそばにあったんだから! これ、マジうける!」
それが、世に言う「悟り」という感覚の正体。
世では、覚醒体験というものが「何だかすごいものらしい」という誤解があるが、私にしたら逆にデラックスで特別感大ありの覚醒体験の方が、怪しく思える。
あなたの「悟りたい」っていう願望が産んだんでないのん?
それを怪しんだほうがいい。
悟るというのは、実に何でもない、見た目の派手さはない普通のことである。ただし、大多数はそうじゃないかという指摘であって、ホントごくまれに派手目な現象もあることは認める。
これはあくまでも私見だが——
『至福体験』は覚醒とは違う。
覚醒体験を「至福の感覚」というのは、ヘンだ。
なぜなら、宇宙のたったひとつの実在は、「すべて」であり「無(
そのとてつもなさに、私は人間として「恐怖」を感じた。
(もちろん、体験の最中ではなくあとで思い返してである)
至福というのは、本質そのものではなく陰陽属性であり、二次的。
至福があるということは、そうでない対のものもある次元の話なので、究極を見た体験ではない。
もちろん、悟るということは私がしたような「体験」が必須なのではない。
本当に、何も特別なことは要らない。
私はたまたまそういう体験のシナリオだったというだけで、特殊な出来事もなく、何気ない日常のシーンで「悟る」ことのほうがかえって多いかもしれない。でも、そういう人たちの方が派手な覚醒体験をした人よりも地に足が着いている。体験そのものにおかしなインパクトがない分、体験に依存しないで済むからである。
『渇き。』というタイトルの邦画がある。「狂気」を描いたお話で、役所広司がとんでもない父親の役を怪演している。
残酷描写と殺人描写の度が過ぎるので、一般にはあまりオススメできない。
誰もが、狂っている。誰もが、何か大事なものを求めているのに、もがけばもがくほどそれは遠ざかっていく。
逆に近づいてくるのが、理不尽な現実。
劇中、役所広司がやたらに「クソ野郎」「ぶっ殺してやる」を連発している。
言葉としては汚いが、それは求道者の素直な魂の叫びに重ならないだろうか。
●生きるとは何だ。
この世界が存在する意味は何だ。
いったい、何の目的で我々は今こうしている?
この映画のタイトル『渇き』とは——
求めれば求めるほど、指の間からスルリと逃げていく「真実」「愛」「幸福」。
どうやったら、つかまえられるのか?
そもそも、頑張ったら捕まえるのが可能なのだろうか?
捕まえられないなら、自分がどこが間違っているからか?
じゃあその間違いを指摘してくれよ。
誰か……誰か!
問うても問うても、神は答えない。
いくら考えても外に問うても、答えは見つからない。
見つからないのに、やっぱり気が付けば問うている。そしてもがいている。
その状態こそが、『渇き』なのだ。
イエスが十字架にかけられ、死ぬ間際……
「渇く」という言葉を口にしたということが聖書に書いてある。
この記事の一番最初に紹介した文章だ。
なぜ、イエスは渇くと言った?
イエスの死に対して、世界はひとつの独特な解釈を施した。
十字架にかかることで、全人類の罪を背負い、贖罪し救いの道を開いた、と。
イエスの死に対して、何らかの意味を見出そうとした結果である。
皆、意味があってほしいのである。いや、ないと困るのである。
皆、人生に意味があってほしいのだ。宇宙に、世界に意味があってほしいのだ。
そこには、ある明確な価値観が存在する。
意味がない、ということには価値がない、という。
実は、イエスの死そのものに意味はない。
彼は、ただ死んだだけである。
確かに、一般人と比べて死に方は特殊だったが、ただそれだけである。
究極には誰のせいでもないし、悪者もいない。
ただ、そうであったというだけ。
宇宙のすべてに、意味はない。
でも、ないはずのその意味を勝手に想像できるスペックを持つのが人間である。
あるはずのないものを、あると信じて必死に探す——
これこそ、鼻の上にあるメガネを、外のどこかにあるはずと信じて探すようなものだ。でも、ないものはいつまでたっても見つかるはずがない。
時間をかけたからといって、努力は何もならない。ないものはないのだ。
だから、「外にはなかった」と気付くタイミングでしか、渇くことをやめることができない。
人生における「渇き」が癒える瞬間とは、すべてのことに、決まった目的も意図も意味もない、ということに気付くこと。
ただ起こることが起こり、それを眺め観ずるしかどうしようもないということ。
渇きが癒えるというよりは、そもそも渇きという状態が自分で作り上げていた錯覚だと気付くこと。癒すも何も、そもそもこれでよかったんだ、という笑える気付き。これが、悟りである。
快楽や刹那的な喜びも渇きを癒すかのように見えるが、それはまやかしである。もちろん、そのまやかしは「楽しい」ことは否定できないので、それを求め突き進む人生もまたよしであろう。人それぞれであるから、悟りと逆方向に活路を見出すのも面白いだろう。
筆者は別記事で、「イエスは十字架にかかるまでは悟ってなかった」という話をした。イエスも理不尽な死刑に対し、神に宇宙に、意味を問うたのだ。
●三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」
これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
マタイによる福音書 27章 46節
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尽くしたのに人々からも弟子からも見捨てられ、理不尽にも殺されていく。
こんな自分の人生に意味があったのか? を極度の限界状態で命がけで問うた時、イエスに気付きが訪れた。
自分の死に、意味がないということに。
自分のことだけでなく、この宇宙に起こることすべて。
好きな意味を、人型人生体験マシンを使ってつけていくだけだったのだ、と気付いた。でも、気付いた時には彼の意味付けゲームはもう終わるしかなかった。
だから、彼は次のゲームに期待をかけた。
(私は)渇く。
この世界で生きることに意味はない。
だから、今から自分が死ぬことにも、究極的には意味はない。
意味がないから、結局は自分がそこに意味を付けることになる。
オレが、ローマや寝返った弟子や民衆、最終的には肉体の命を救ってくれなかった神様が悪い、なんでこんな目に遭うのだ! という意味付けももちろんできる。実際そっちがやりやすいから、本当にそうやりかけた。
でも、意味が決まっていないなら。意味づけが自由なら——
ここで、すべての恨みやネガティブな感情を捨てて、すべてをゆるして自分をあらゆる感情的縛りから解放する、って選択はどうだ?
みんな、ビックリするぞ。ハハ。誰も試みてないからな!
きっとこの死にざまは後世に残るぞ。もしかしたら、それを曲解したり過度に美化したりして世界に混乱を与えるヤツも出るかもだが、そんなことはオレの知ったことではない。その時代の者の責任だからな。
ああ、「渇き」の癒し方を分かったのが、死ぬ直前なんてな! これじゃあ、もう確信犯的に楽しめないじゃないか。
ならば。自分(自我)で決められることじゃないが、もしいつかまたこの世界に遊びに来ることがあれば、オレはまた「渇こう」。そして、今度こそ思いっきり楽しもう——。
イエスの「渇く」は、そのような物語として読むと面白い。
どっちにしろ、今現在鼻から息をして生きている存在にとってこの世界という名の遊び場は、いくら幻想と言ったってリアルである。
渇くな、とは言えない。
だって、この世界には『渇きに来た』のだ。
だから、分からないまま振り回されるよりも、あえて渇くという体験をしに来ているのだ、と確信犯的に渇く。
意味などないと知りつつ、ゲームだからあえて意味という幻想に遊んでみる。
今日も明日も——
人は皆、渇きの中に生きる。渇きを癒す方法は、あなたが認識するすべての事象において、あなたなりの納得できる意味づけをし続けること。自分の人生をひとつのストーリー(物語)として認識すること。
渇きをどう癒すかで、個々人のストーリーに差ができるだけである。
役割分担なので、いい悪いはない。
悟るということは、決して「渇かなくなる」ことを指すのではない。
「渇き続ける、そして癒し続ける」というゲームをしていることを自覚し、それでも確信犯的にゲームをやめず、かえって積極的に関わろうとすることが「悟り」である。もしゲームを降りるなら、その覚者は生きてない。悟りすぎてこの世ゲームを降りた者を覚者とも呼べない。
だから筆者は、今日も渇きを覚えて色々な行動を起こす。
でもそれは、決してむなしい行為なんかではない。
工夫さえすれば、宇宙一強烈な情的感動を味わえる行為なのだから。
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※この記事は、筆者の別著「スピリチュアル映画評論」の第39作目の記事に同じものが掲載されています。そちらをすでにお読みくださっている方には重複する記事となりますことをご了承ください。
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