イエスが道で真理なのではない ~あなたが利用するから真理となる~

イエスは言われた。

「わたしは道であり真理であり、命である。

 わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない。」



 ヨハネによる福音書 14章6節



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 新約聖書にある「ヨハネの福音書」は、不謹慎な言い方をすれば「喜劇」である。

 三谷幸喜脚本張りの、滑稽な人間ドラマと言ってもいい。

 聖書には4つの福音書があるが、この4番目の「ヨハネ」だけはかなり異色。

 誰でも分かる特徴として、イエスが他の3福音書より「おしゃべり」に描かれている。饒舌と言うか、しゃべりたがりである。

 だから、この書は「悟りの境地になり、その見地から自分の悟りを喜んでベラベラしゃべる者と、聞いても意味が分からず悩む(またはイエスのほうが頭おかしいと思う)一般人との、噛み合わないちぐはぐな会話集」だとも言える。

 その一例を、ここで挙げてみよう。



●「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」

すると、ユダヤ人たちが互いに言った。

「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」



【ヨハネによる福音書 7章35節】



 他にも、紹介すればキリがないが、有名なのは「私の肉を食べろ」という有名なイエスの言葉があるが、人々はそれを文字通りの「スプラッターホラー映画」と捉えた。笑ってはいけないが、人肉を食べるというストレートな意味に捉えた。イエスは「自分のメッセージを受け入れる」ことを食べることになぞらえたのであるが、イエスも普通に言えばいいのにさ!

 今紹介したのは、「見つけられない、来れない」というのは精神的な境地、あるいは悟りの視点のことであって、決して現実的な「場所」を示すものではない。

 一般人は、悟ってしまわれたイエスの言葉をとんちんかんに解釈する。

 で、イエスもまたそれを察して、さらに説明を試みるのだが逆効果という。(笑)

 しゃべればしゃべるほど、溝は深まる。しまいに、大勢に呆れられ去られ、12弟子だけが最後に残る。



 ヨハネ福音書は、最初から最後までこの調子である。

 イエスは、十字架で死ぬまでこれをやり続ける。他の人間も、結局イエスの言っていることの真価も分からないまま、ヘンなやつ(世を惑わすやつ)として十字架にかける。だから、冒頭に紹介した聖句も、表面的に捉えると「爆弾」である。

 文字通り受け取ると、こういうことであろう?



●私が道であり、真理である。

 誰も私を通してでないと、真理に到達できない。救われない。

 だから、私に学べ! 私を求め、受け入れよ!

 それ以外に、あなたが神や真理に至れる道はない!



 うわ~、傲慢!

 今の時代、イエスという人物のイメージが出来上がっており、皆無条件で尊敬しているので、それほどイエスが傲慢だと思う人はいない。世界的にそこいらの一般人とは格が違う「神の子(あるいは神自身)」と思われているからね。

 まぁ、関心の薄い日本人なら、一般常識として「救い主」として知ってはいるだろうが、だから自分と何の関係があんの? という感じだろうから、どうでもいいかもしれないが。

 さぁ皆さん、ここで気付いてくれ。



●今、「私は真理であり道」 を、文字通り捉えましたよね??

 これって、イエスの言葉を誤解する登場人物たちと同じことやってませんか?



 そう。ヨハネ福音書では、皆イエスの言葉を「文字通り」イメージして失敗している。ということは、このイエスが「私が真理であり道」と言ったのも、何かのたとえなのだ。

 では、こう考えてみよう。

 今、イエスを目の前にしてイエスの話を聞いている人がいるとして。

 その人物の人生の主人公は、もちろんその本人である。彼の人生に、イエスは脚本上の登場人物として今目の前にいるわけだ。

 ある人物の人生に登場するすべての人やモノや場所などは、すべて密接に関わり合っており、影響を与えあっている。それらのどれひとつとして、構成上必要ないものはない。

 だとしたら、人がその人生をより良く生きるためには、自分のエゴ(都合)を超えて、最終的に良い悪いを超えて「すべてのものに感謝する」ことである。

 目に入る、自分の世界に関わるものは、何でもその存在を認めるのだ。

 たとえ限られた人生で、積極的に関わることが少ない何かでも。



 だから、ある人物がイエスに関わりその言葉を聞いた以上、それは大事にせよということ。

 文字通り、イエスが真理で、誰も彼でしか救われないのではなく——

 イエスと関わったあなたは、そのイエスが教材となり、真理に至れる。

 その存在を無視したり、表面的な認識で終わってしまったら、せっかくの学びの機会がもったいない。だから、もっと分かるまで向き合え、ということ。

 だから、聖書の言葉は補う必要がある。



●(イエスを知り、その言葉に触れた者にとって)

 わたしは道であり真理であり、命である(になる。うまく私を利用してくれれば)



 イエス自身が真理への道とか命の根源(神)というのではなく、あなたが出会ったイエス(現在では故人なのでイエスの言葉に対して)にきちんと向き合うなら、それがあなたの「成長への道しるべ」になり「真理」になり、やがて「命」への理解へと至る。

「向き合うこと」が真理への通路なんであって、イエス自身が真理なのではない。



 だから、本書を読んでいるあなたに、私はこう言ってもいいわけだ。

「私 (筆者)は、道であり真理であり、命である。本書を読む誰でも、私を通さなければ神(真理)に至ることはできない」。

 もちろん、私自身がすごい存在なのだとか傲慢という話ではない。

 こうしてネット小説投稿サイトを通して、あなたの人生に私(私の書いたメッセージ)が登場した以上は、それはあなたの人生に必要な「材料」となる。もちろんそれを無視して生きる自由もあるわけであるが、うまく用いればあなたにとって益となる。人生に登場するものに、ムダというものはない。(ムダは作るからあるだけ)

 あなたが自己責任においてうまく向き合ってくれれば、私の言葉なんかからも、あなたは素敵なものをつかめるよ、ということ。それは、私自身が正しいとか素敵ということとは全然違う。(ちょっと悲しいが、もちろん!)

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