イエス、弟子の足を洗う ~イエスの指導姿勢に学ぶ~
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
(弟子の) ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」 と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」 と答えられた。
さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを 『先生』 とか 『主』 とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」
ヨハネによる福音書 13章1~15節より抜粋
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イエスのしたこと言ったことは、基本聖書の文章という形でしか残されていない。
もちろん、その内容が全部真実であることはないし、正確さのほども多分に怪しい。信仰的要素によって、かなり美化されている部分もあるだろう。
それを承知の上で、なおイエスに関して言いたいことがある。十分な材料とは言えないが、イエスの弟子に対する一貫した指導姿勢というものが、聖書に書かれてあるイエスの人生を通して私には伝わってくる。
その姿勢は、二千年の時を越えて現代でも通じるものはあると思う。まったく古臭さはない。
今日の問題提起は、そのマスター・イエスのような指導姿勢のスピリチュアル指導者が、この時代に何人いるのだろうか? ということである。
イエスの指導姿勢が一番色濃く出ているのが、今日紹介した文章だ。
十字架にかかって死ぬ少し前、イエスは弟子たちの足を洗う、ということをした。
今、誰かの足を洗うと言っても、お風呂場で家族や配偶者の足でも洗ってあげる、というようなちょっとした思いやりとか、微笑ましい家族サービスとかいう感じで捉えられる程度だろう。
しかしその当時、他人の足を洗うというのはかなり屈辱的な行為で、上の立場の者が下の者の足を洗うなど、天地がひっくり返るような事態なのである。
でもイエスはそれをした。無論、弟子たちはびっくりして拒否した。しかしイエスはそこを押して実行した。そして驚く弟子たちに、静かに問うのである。
「お前たちには、私がしたことの意味が分かるか」と。
●指導、ということの王道である『師自らが率先して手本を示す』姿勢である。
まず、やってみせる。先に進んでいる者が、後の者に道しるべを示す。
イエスが「足を洗う」ことで伝えたかったのは、「仕える」ということである。
もちろん、奴隷や召使のように主人の命令を何でも聞く、というタイプの 「仕える」 ではない。
相手を大切に思うがゆえに、そのために必要なら身分や立場、メンツをも超えて必要な行動ができるほどの強い気持ち。すなわち「愛」である。
世間的には、大いなる指導者として持ちあげられ、スーパースター扱いされていたイエスであったが、彼にしたらそんなことはまったく関係なかった。
私が注目したいのは、イエスは生涯を通して、他者に何かを教えたり伝えたりするのに、「自分の実績や幸せ度をアピールするという戦法を取ったことがない」という点である。
最近の「幸せ」「愛」「自己肯定」というキラキラ三本柱でうわべの気持ちばかりいいスピリチュアルでは、指導者が実現した(引き寄せた?)事柄を前面に押し出してアピールしたり。そこに「すごいすごい!もう時代の流れはこっちですよね!」みたいなキャピッとしたキモい賛同者の絶賛コメが踊る。
自分がいかにダントツで幸せか、成功中かをアピールするのは、イエスのやり方とはまったく違う。イエスはまず手本を示すという教え方をしたが、でもイエスがすごいチャンスや豊かさを引き寄せて、ハッピーハッピーになることで弟子にもそうなれ、などという指導はどこにもない。
むしろイエスは、ただ「仕えた」。ただ背中で伝えた。
在り方そのものだけで伝えた。
イエスは、現代人気のある指導者と全然違う。
現代で人気のあるのは、主にさっき述べたようなタイプである。その指導者がめっちゃすごいチャンスをつかみ成功していて、傍目からもめっちゃ幸せそうで、「自分もああなりたい」「あの人の指導を受ければ自分もそうなれるかも」という気持ちを起こさせることで、人気を得る。
イエスは、人気という点では滅茶苦茶あった。しかし彼は、すべての美味しい話を断った。
権力者とも一切仲良くしなかった。どの有力者にもどこの組織にも与せず、一匹狼を貫き、ホームレス状態で常に貧しかった。それは、単にイエスがカネや権力が嫌いだったということではない。
弟子たちや民衆のことを思うことに忙しくて。
いかにしたら、このことを伝えられるだろう? ということに熱心すぎて、お金や自らの現世的安楽や富など眼中になかった。自分が現世ご利益的に分かりやすく幸せな身分になることで、皆の意欲を掻き立て追わせる、というのがいかに危険かを知っていた。
スピリチュアルという分野において、一番の柱を願望実現や引き寄せに置いてしまうと、分かりやすい「幸せ」をつかむことに主眼を置いてしまうと、そのスピリチュアルはやがて狂いだす。
イエスは、決して率先して引き寄せ、皆の「幸せの手本」になることはなかった。
それどころか、いつ見ても常に誰かのために苦労していた。カネもなかった。
結局、十字架という一見報われない結果にはなったが、それでも最後まで「割に合わない」と投げだすこともなかった。最後まで、弟子よりも裕福にも、現世的に幸せにもならなかった。
今の話を通して、宗教家やスピリチュアル指導者は皆恵まれるな、苦労しろと言いたいのではない。
幸せや豊かさとは、エゴで追うものではないにしても来るのを拒むものではない。それを「要らない」とせよなんて言わない。流れに従い、受け取れるものは受け取ったらいい。
ただ、メッセージにおいてそれを人を惹きつけ集めるダシにするな。
自分の成功や幸せ度合いを隠す必要はないし、口をふさがなくていいが、ただそれを前面に押し出すな。見苦しい。
あくまでも指導者は「仕える」ことが仕事であり、決して幸せ自慢の先陣トップを切るためにいるのではない。
これは個人的な感性や趣味の問題になるが、スピリチュアル指導者の中には自分や自分の家族が幸せそうな写真とか、自撮りした得意げな写真をアップしているようなのは、神経を疑う。
ハマってしまった人は、その気味悪さにも気付かない。
いけないというのではなく、指導者の中でいったい「何を一番重要な柱にしているか」という点を考える時が来るといいね、という話である。
でも多分、今学びとしてその段階を経験している者ならば、言っても無駄だろう。十分にそれを経験してからでないと、次の段階に行けない。
イエスは古臭い、前時代タイプの指導者ではない。
その姿勢は、普遍的に通用する。彼のような人物に出会い、仕えまた仕えられる者は幸いである。
イエスは賢かったので、自らの成功や幸せをダシに「だから自分の教えは従う価値がある」という認識を与えることの怖さを知っていて、それを避けた。
彼ほどの人物なら、この世の成功や究極の幸せに見える状況など、その気にさえなれば容易につかめたのに、あえて蹴った。常に、そういうものを退けていた。
弟子たちは、そんなイエスに時々は文句を言ったようだ。そんなに色々なチャンスを断らなくてもいいじゃないですか、あのお金くらい受け取ったらいいじゃないですか、もらってもバチは当たりませんよ、ってな感じで。
あくまでも、万難を排して伝えるべきをきちんと伝えられる可能性を高めることだけに身を捧げた。本当に、頭の下がる指導者である。
金運・開運とかそういう成功や引き寄せそのものを追うスタンスなら、それでいい。ただ、それならそれでちょっとでもそこに「精神世界」(これならまだましで、ひどい時には「覚醒」とか「悟り」とかいう単語まで使ってくる)だよというのを匂わすな。
それを生きる本質、とか言って商売するな。
それは、イエスが自身の生き様で示したように、追う本質ではない。
最も伝えるべきは、「仕えること」。すなわち愛。
もちろん、よしよしなでなでの愛ではなく、もっと深い意味をもつものである。
そこができていて初めて、オプションとして成功や幸せ感がいっぱいでもいい、という話である。
その基本部分がしっかりしていないのに、成功や幸せ度合いだけの頭でっかちはいないかい?
長い歴史で宗教が自分に厳しくし否定するような持っていき方ばかりだったので、その反動でか現代では過度に自分に優しく甘くしすぎるスピリチュアルが横行する傾向がある。
ちょっと、ぬるま湯からお出になられたらいかがだろうか。
●幸せな人間しか、他人を幸せにすることはできない、というのは間違い。
他人を思い(つまり愛し)、仕える人間であれば誰でもそのようにできる。
もちろん、苦労はあろうとその「仕えること」そのものを幸せだと見ることができるなら、話は別である。マザー・テレサなどはまさにそのタイプだったろう。
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