一粒の麦もし地に落ちて死なずば ~自分に死ぬ、ということ~

 はっきり言っておく。

 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。

 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。



 ヨハネによる福音書 12章24節



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 これも、有名な聖書の言葉である。

 キリスト教的には、イエスの十字架の死という犠牲(一粒の麦の死)のおかげで、多くの実を結ぶ結果となる(イエスを救い主として受け入れ、救われる人が続出する)ということを比喩的に言ったものである、という解釈になる。

 信仰色を抜いて考えても、やはり「自己犠牲」の尊さ、という意味合いが強い。

 一人の献身的犠牲が、結果として大きな成果をのちに生む。

 別に本当に死ぬわけではないが、死ぬほどに努力することで、その努力に見合った結果を得られるであろう、とマイルドに解釈してもいいかもしれない。



 でも、ここで言う「死ぬ」ってどういうことだろう?

 自分が救世主でも何でもなく、キリスト教をつくりたいとも思っていない、いち覚醒者としてのイエスなら……この言葉をどんな意味で言ったのだろう?

 それを考える上でポイントとなるのは、「死ぬ」という言葉の解釈である。

 イエスは、ここではどういう意味合いで「死ぬ」という言葉を使ったのだろうか?



 私が得たインスピレーションでは——

「自分に死ぬ」ということである。

 じゃあ、自分に死ぬ、とはどういうことか?

 もちろん、本当に死ぬことではない。

 私は、死ぬことなど大変でも難しくもないと思っている。

 実際に「死ぬこと」それ自体に、何の意味も価値もない。

 死自体が何かを生み出す効能を持つ、などということはない。意味があるとしたら、その瞬間までに込められた「思いの強さ(エネルギー)」のほうだろう。

 実際に死ぬよりもはるかに難しいのは——



●自分の自我(エゴ)に死ぬ



 これである。

 イエスが言う「死」とは、これを指している。

 言い換えれば、自分のしがみついていたもの(思想信条・常識・自分なりの確信や自信)を捨てる、ということである。これなら、死ぬことよりも難しい。それを証拠に、数え切れないほど魂は輪廻してきた。自分の思い込みを捨てられず、執着を手放せず、課題を持ちこし続けてきたのである。

 死ぬことは簡単だが、死までに魂が満足して「いいゲームだった」と納得できる段階に至る人は、まれであった。(これからの時代は、変わるだろう)

 私も、この意味だったら納得できる。

 だって、私の身の回りに、この「自分に死ぬことの難しい人たち」がたくさん観察されるから。



 なかなか手放せないんですよねぇ。

 変わりたい。自分を変えたい。

 でも、ここの部分だけは変えずに「変わりたい」。(そんなんできるか!)

 ここの部分だけは、アンタッチャブルで。

 そんな風に、自分の「聖域」だけは守り抜いて、他の部分で何とか変わろうと覚者のお話会に通い続ける人がいる。はっきり言って、ム・ダ・よ。

 変わりたければ、その聖域に何かが踏み込んでくるのを許可しなければならない。

 死ぬより難しいことだから、躊躇するのも分かる。

 私は、そうすることを幾人かにすすめた結果、そのほとんどから拒絶された。

 聖域に踏み込まれることを恐れ、嫌い、防衛本能から私を遠ざけた。



 その人たちの顕在意識は、おそらく誤解している。

 筆者さんって、その程度の人だった(人の気持ちも考えず、ズケズケ言う人)と考えているはず。でもそれでは、エゴの思うツボなのだ。

 エゴはどんな手を使ってでも、自分の聖域(潜在意識部)をいじられたくない。そこを他者にいじられるのは、なんか自分が裸にされるようでイヤなはずだ。だから、捨てる難易度が高いのだ。

 エゴの堅固な人になると、私に踏み込まれるのが嫌という段階どころではなく、私がただ言いがかりをつけているという程度にしか受け取れない。

 でも、個人セッションなどで、ここを乗り越えられた時、とっても素敵なドラマが生まれることがある。なぜなら、無数の輪廻を繰り返してもできなかった「自分に死ぬ」を初めて達成したから。

 そこには、天地の大いなる喜びがある。 



 覚者イエスは、今日もあなたに語り掛ける。



●あなたは、一粒の麦です。

 麦は、種として地に落ちれば実を結びます。

 その状況は、「死」にも似ていますが、その死の本当の意味とは——

 自分がしがみついて離れられない考え方、思い込みに死ぬ(いったん手放す)ことです。それにしがみついていたところで、何も変わらないということに、人はなかなか気付けません。

(それを証拠に、その人は何年も同じことの繰り返しで、成長した感がありません。その事実があっても手放せないというところに、この問題の難しさがあります)

 あなたが、清水の舞台から飛び降りたつもりで、思い切って自分の聖域をさらけ出し、上書きされることを望み、許可したなら……天地がひっくり返るような奇跡が起こるでしょう。

 私がたとえで言ったような「豊かな実を結ぶ」ということが、具体的に起こるでしょう。

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