預言者 ~予言者とは違うよ!~
【預言者(よげんしゃ)】
→ 神と接触し、直に聞いた神の言葉を人々に伝え広める者のこと。
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我々に馴染みがあるのは、「予言(者)」のほうだろう。
ノストラダムスの大預言、とかあったからね。
未来を言い当てる予言とは違い、こちらは「神様から言葉を預かって、その言葉を大衆に伝える」役割の人である。
神なら、「私は神であ~る」とか言って、すごい現象でも見せて 「言うことを聞け!」ってやるほうが早いんだけど、なぜか神様はそういうことはしない。
人間に伝えさせて、で世間はその人を信じなかった、なんてケースがほとんど。
旧約聖書には3大預言者と12小預言者が出てくるが、たいがい散々な目に遭っている。散々な目に遭う理由のひとつに——
●当時の常識的感覚からしたら、受け入れられない内容が多かった。
中には、自分たちの生活基盤それ自体を揺るがせられるような内容もあった。
旧約の集大成としての、最期の預言者をイエスと考えるなら、当時の人々がその革命的な教え(預言)を受け入れるのがどれだけ大変だったか分かるだろうか。
失うものが大してない庶民層には絶大な支持を受けたが、今の社会体制でうまい汁を吸っている者(支配階級)には、到底受け入れがたい話であった。ゆえに、イエスに様々な逆境が襲うこととなり、最期には逃れ切ることができずに十字架で死んだ。
預言者とは、苦労するものなのである。
「男はつらいよ」みたいに、「預言者はつらいよ」という映画を作ってもいいくらいだ。(ヒットしないだろうなぁ……)
誤解されることもある。自分の醜い部分を見たくないので、耳をふさぐ人もいる。
皆聞きたいように聞くし、解釈したいように解釈する。
相手の理解までコントロールできない預言者は、そこが一番の泣き所であった。
でも、流石は神に選ばれたような人材。
かなり芯の強い者たちを選んだ。だから、皆多少のことではへこたれなかった。
作家の曽野綾子さんが、その昔アパルトヘイト関連のことで失言をした旨のニュースが話題になったことがある。
一番の主流意見は、曽野さんへの非難であった。皆、それ一色。理性的な批判はまだいいが、ヒステリックで口汚い、ただのののしりもある。
これは政治オピニオンジャンルの文章ではないので、曽野さんが是か非かという結論には触れない。ただ、私は世間へのブレーキとして、このことだけは言っておきたいのである。
●議論が、アパルトヘイト称揚かそうでないか、ばかりに行き過ぎていないか?
あえてそういうことを言うからには、それだけの根拠や確信、そう判断し得るだけの情報があるはずである。そこを考える手前で、もう皆さんのエゴが騒ぎだし、「誰もがそう思うはずだ」という安心感を隠れ蓑に、キャンキャン言ってるだけじゃないの?
曽野さんがどういう人か、その著書の一冊すら読んだことのない人の批判も多い。
私は、とても全部など読めないが、幾冊か拝読させていただき感銘した。
スピリチュアルの世界で「覚者」とか騒ぐが、そんな価値をしのぐ「活きる覚悟と洞察力」に溢れた方だと、個人的にお見受けする。
だから、ここから先は私の個人的な主観に基づく結論になるので、気に食わない人はスルーしてもらってよい。私は、「ちょっと言い回しに配慮が足りなかったかもしれないが、本質は間違っていない」可能性も十分にあるのでは、と考える。
いわば 「預言(インスピレーション)」 であり、よほど言い方に気を付けないと思いを伝えることは難しい、という難物な意見だったのではないか。
●本当の預言者は、時として時代に厳しいことを言うので、疎まれる。
ニセ預言者は、調子のいいことを言って歓心を買うので、人気者になる。
昔なら、曽野さんようにものを言う人は、絶対権力に葬られただろう。
今でこそ言論の自由があり、多少の嫌がらせはあるにせよ、イエスのケースのように殺されるほどのことはなくなった。逆に、そういう「辛口」さえ受け入れる世の中になってきたことは、まだ救いだ。
預言者(特殊なインスピレーションを得て、それを言葉にし発信していく者)が皆、国語力が高いわけではない。皆が、配慮の行き届いた細やかな気遣いをもって言葉を選べるわけではない。
ぶっきらぼうに、要点だけズバッと言ってしまえば「エエッ!」てな内容も多いのが「預言」である。丁寧に言っても言い過ぎることなんてないのに、装飾文もなくズバッと結論だけでは、そりゃ表面的に捉えた人のブーイングも来ますわな。
曽野さんは、そういう批判を受けての見解を述べていたが、言ったことを間違ってましたとか、反省しますという内容はゼロ。
むしろ、ネット社会のゆがみのほうを嘆いていた。
預言者とは、こうしたものである。強い。自分の受けたメッセージに、誇りを持っている。
本人はそう思ってないだろうが、筋金入りのモノ書きという人種はたいがい「預言者(降りてきたものを書く)」だと思って構わない。
その瞬間瞬間の正しさとは、理屈や前例など関係ない、一期一会のものである。
預言者は、それを伝えることに長けている。
ただし、多数は歴史を通じて積み重ねてきた「常識」や「定説」を絶対とするあまり、その瞬間を柔軟に見るというよりは、「感情論」に走る。魂の旅の若い者ほど、その傾向は顕著である。
あくまでも可能性としてだけ提示するが、私も曽野さんと同じように批判される覚悟で言うと——
●表面的な議論に囚われない、一番スマートかつ合理的な線を示した可能性もありますよ?
私個人的には、曽野さんが彼女なりの情報収集と根拠と洞察で述べたことが、本人が常人より「おおらか」過ぎて、こういう本来必要のない「非難」を受けたもの、と感じている。
常人離れしているからこその作家。同じような、標準的なものの見方なんだったら誰もがしているので、抜きんでて注目などされない。
時代を変える者、新たな何かを生みだす者は、必ずと言っていいほど、それまでの古いものには「敵対」する状態で現れる。既存の勢力やメジャーな流れには、あまり好かれない状態から出発する。
●まっとうな批判というものは、する側が批判する対象と同じかそれ以上の精神レベルでないと無意味。
私が見たところ、曽野さん批判の大概は、自分が知った範囲の情報を絶対として、あとは単純なる「アパルトヘイト反対」を盾に、パブロフの犬みたいに反応し、ヒステリックに吠えている人たちが多い。
理性的議論も見られるが、比率は少ない。
批判する側の洞察力が、批判対象より劣っていては、そりゃ子どもが横綱に相撲を挑むようなもので、相手はそんな人物の幼稚な批判など屁とも思っていない。批判するだけ労力のムダである。そのムダってことが分からない人がまだ世に多い。
あと、筋金入りの預言者なら、「後で人からやいのやいの言われて覆る程度のことなら、最初から言わない」という覚悟がある。口にするなら、それ相当の堅固な思いがあるのだ。
それに勝つには、それを上回る洞察を示さないと。エネルギーを持たないと。
だから、曽野さんへの批判が正論であればあるほどに痛々しく感じるのである。
「結局のところ、アパルトヘイトの賛同、ってことかい!」っていう短絡なくくりですべてを斬って捨ててしまっている。心理学チックに言うと、「人の中にあるネガティブな部分が刺激されて、反応を引きずり出された」ということである。
それはそのまま、「その人自身の課題」だということだ。
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