こんなイエスはイヤだ! by 鉄拳


 私はかつて『奇跡のコース』(A Course in Miracles。以下ACIMと略す)というスピリチュアルにハマっていた。

 一時は、これこそが本当の真理だと思い、命がけで取り組んだ。

 しかし私は、いつしかそれから離れていった。

 今日は、なぜ私がACIMを離れたのか? どこで見切りを付けたのか? について分かち合いたい。



 筆者にとってすべての教え、思想信条は「クラブ活動」である。

 それぞれが、それぞれに気持ちよく、楽しく「信じたいものを信じればいい」。 だから、ここから私がACIMの批判を展開しても、これは『マイ部活動』である。

 読みたい者だけ、読めばいい。その後でその内容を受け入れるか、筆者のひとりごとして忘れるかも自由。私はただ、好きに言いたいだけなのである。

 決して、ACIMが間違っている、と言いたいのではない。マイワールドにおいては、趣味に合わないから採用しない、というだけのこと。



 理由は、細かいことを言えば色々ある。

 今回、私がACIMの内容においておかしいと思う点をつらつらとあげつらうのは、建設的でないのでやめておく。文章全体のメッセージ性がぼやけないように、今日はふたつだけに焦点を絞ってお話しよう。

 では、始めよう。



 こんなイエスはイヤだ! (by 鉄拳) ← ウソ



①本当のイエスなど、誰も分からない。



 ACIMは、アメリカの大学助教授だったヘレン・シャックマンに降りてきたイエス・キリストからの声を文章化したもの。「これはチャネリングではない」と言っているが、そんなことはどうでもいい。とにかく、イエス本人から来ている、という前提があることが重要なのである。

 この世界にはACIMだけでなく、「これはイエスからの言葉」「イエスと対話した。出会った」とされる内容の本が、無数に存在する。

 私はその手の本が大好きで、イエスがチャネリングされている(イエスのメッセージを受け取ったとされている)内容と分かれば、手当たり次第に読んでいた。

 そんな中で、ひとつの疑問が湧いてきた。



●どれが、本物?



 だって、それぞれの著書で、かなり言ってることが違うのである。

 言い換えれば、それぞれの出会った「イエス像」が違いすぎるのだ。

 大まかには同じ部分もあるが、どの本もウソをついていないのだとしたら、なぜイエスは本を比較した時に「別人格」に見えるのか?

 同一人物(同じイエス)が言ったとは思えない言葉があったりする。

 ハマっている時には「恋は盲目」で気付かなかったが、このACIMこそが一番「あのイエスが言ったとは思えない言葉の羅列」なのである。



 後で気付いたが、イエスがACIMを語ったはずがない。

 イエスは、優しい人物だった。

 相手の目線に合わせる、ということにかけてはなかなかのものだった。

 彼は、宗教指導者達やインテリ層を相手にすることを好まず、字の読み書きもできず、無学な一般庶民と接することに喜びを感じるほうだった。時には、世から見捨てられたような病人や犯罪者、風俗嬢などの「日陰者」と接することに使命を感じていた。

 必然、彼の語りはそれほど難しい言葉を使わないものとなる。

 イエスは、宗教的専門用語を使うことを避けた。のみならず、哲学のように本質的な内容を格言的な感じでズバリ言うことを避けた。その代わりに、『たとえ話』を多用した。しかも例えに登場するのは、一般庶民に馴染みのある文化や風俗に関係したものに限定した。

 生活に密着した例え話だけを使った。まぁ、それでもイエスの話は時として深淵すぎて、言葉は易しくてもその真意を汲み取るのは困難だったようだが。



 私は、ACIMのテキストを読んでみた。私は文章家を目指すくらい、書くのも読解するのも得意だ。その私が、読み進めるのに困難を極めたのが、その書物だ。

 読みにくさという点では聖書もたいがいだが、これの比ではない。私はこれまでの人生で「これほど読みにくい本に出合ったことがない」。

 翻訳のまずさというのもあるだろうが、それにしたって分かりにくすぎだ。とてもではないが、インテリ層に語ることを好まず、学のない一般庶民に話すことを好んだイエスの語り口だとは思えない。



 確かに、二千年たってしまった今では、イエスがこうだったと確実に示せる証拠は皆無である。

 宗教やスピリチュアルの世界でだけ、「私はイエスからこう聞いた!」と主張するやつらがゾロゾロ出てくるが、すべて自己申告であり、言った人物の心の中の世界だけの話なので、真偽の確かめようがない。

 しかし筆者は、先に述べた 「思いやりから、分かりやすい話をするイエス像」 を支持する。そうなるとACIMのイエスが語ったとされるテキストの部分は、まったく別の霊的存在をチャネリングしたことになる。

 ACIMを世に生みだした人物は、そのことに気付かなかったと思われる。

 つまり、「思い込み」の産物である。

 記述者が大学教授であることを考えれば、文章があんなに難解で長文になったのは、「イエスを聞き取ったというよりも、自らの意識の表れであり願望。あるいは、イエスを名乗るインテリな霊的存在に、同調してしまっただけ」とも考えられる。



 皆がそうだとは言わないが、イエスとか高次な霊を名乗る存在がアプローチしてきたら、舞い上がってうれしくなってしまい、検閲機能(ホンマか?)が実に甘くなる。へっぽこチャネラーなら、良い知らせを聞いた村人みたいに、「ニュースだよ!」とすぐに皆に話してしまう。

 これだけ、イエスに関して出会ったとか話を聞いたとかいう報告がありながら、どのイエスも同一人物だというには無理があるという状況があるのは、このせいである。つまり、失礼を承知で言えば「勘違い」である。

 これは、あくまで私見なので、腹が立つ人は読み飛ばしてほしい。



●イエスに関する世のチャネリングメッセージは、すべて勘違いである。

 どれひとつ、イエスの真実を言い当てたものはない。



 もちろん、これは私自身のイエスに関する言及も含めて言っている。

 私も、その例にもれないことを認める。

 イエスのことが分かるのは、イエスだけ。本人だけなんだよ。

 その他は、その人物の見たいようにしかイエスを見れない。

 何かのチャネリングでも、絶対に受け取る人物の主観が混じる。時には「願望」さえ混じっていることがある。それなのに皆、「我こそは真実のイエスに迫った!」と言ってしまう。

 いくらイエスではない者がイエスを語ったところで、片手落ちなんだよ。なぜそれを認めない?

 イエス本人が人類の前に出てきて、これこれしかじかと言ってくるなら、まだ分かる。なんでさ、「あなただけを通して」とかまだるっこしいことをするのさ?

 人によっては、「イエスが出てきても、皆簡単にはいと信じるだけ。でも、名もない誰かを通じて言われたメッセージを、誰が言ったとか関係なく受け入れ、本質を見れるかを試しているのだ」と考える人もいるかもしれない。まぁ、愛の試練とでも言いたいわけだな。



●神が、人を試すか?

 試すなら、その時点でもう神の子ではない。



 イエスがそんなにすごい人(神の子)なら、表舞台に出てきてしゃべっても別に減るもんじゃないだろうに。

 なぜ、世にまかり通るウソを正さない? 聖書がトンデモナイと釈明しない?

 またまた、熱心なイエス信者は言うだろう。 「皆さんの人生の主権を侵さないため。強制的に介入せず、あなたがたを信じるからこそ出てこないのだ」。

 ふーん。じゃあ、皆を信じているから、今目の前でいかにイエスや聖書を曲解しそれに気付かないで苦しむ人たちを、「信じているがゆえ安直に助けない」のだな?

 なら、人間の親よりサイテーなやつだな、イエスって。

 目の前の苦しんでいる子どもを具体的には助けない、ってことだよね。大きな目的のために。

 私なら、大きな宇宙の目的などどうでもいい。

 今、目の前の我が子を助けられるなら、それでいい。



②完璧な存在から学ぶことなど、何もない。


 

 ACIM的には、どうも「イエスは完全な存在」らしいのだ。

 イエスは、十字架上でも大して苦痛ではなかったらしい。

 聖書には、十字架上でイエスが口にした言葉としての、有名なこの言葉がある。



「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」

 これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 という意味である。



【マルコによる福音書 15章34節】



 ACIMによると、「イエスはこの言葉を言わなかった」んだって。

 聖書の捏造、なんだって。

 次の文章は、イエス本人の言い分……らしい。

(以下引用)



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 

 私は十字架上で絶望したりはしなかった。

 あの一連の出来事の一から十まで、ずっと自分の平安の中にどっぷりと浸かっていたんです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」 という聖書の記述はでっち上げですね。わたしはそんなこと言ってない。

 そんな弱音を吐く心境に陥っていなかったわけです。



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 私は、イエスが言ったように言われているこの文章に、違和感を持った。

 弱音を吐くのは、神の子ではない?

 ふうん。

 じゃあ、イエスは十字架で大して苦しくないくらいだから、イエスとして歩んだ公生涯においては、彼にとって耐え難き苦労や忍びがたき感情体験、といったものはなかったのね。

 いつだって、平安に満たされた境地だったのね。



●そんなイエスから我々が学ぶことは何もない。

 そんなイエスに、価値はない。



 確かに、パウロが確立してしまったキリスト教は、的外れな部分が沢山ある。

 でも、それは事実二千年もの間、たとえ人々を苦しめたとはいえ、生き残ってきた。生き残ってきたのは、そこにやはり人の胸を打つ「真実」があったからだ。

 では、その真実とは何か、指摘しよう。



●弱さこそが強さ、ということ。



 イエスは、弱音を吐いた。

 でもそれは、神の子として失格とか、無様だったのではない。

 それこそ、シナリオだった。

 人は、皆強くない。愛が絡むと、むしろ弱い。

 無力とさえ言っていい。

 イエスは、それでいいと伝るために、十字架上で弱音を吐くシナリオを担った。

 しかし、イエスの最期のドラマがすごかったのは、そこで終わらなかったところにある。彼は、弱音を吐いた時、チャンスをつかんだ。

 弱さと強さは、遠い距離関係にある真反対ではない。コインの裏表である。

 だから、簡単なきっかけさえあれば、弱さもすぐ強さに転じる。

 なんと、イエスは十字架上で大悟した。苦しみの絶頂のゆえに一度は弱音も吐いたがしかし、その状況でも彼は大逆転した。

 そこに、弱い我々は自分のリアルな境遇を重ね、自分もできる! と励まされるのだ。イエスも、自分と同じ悩みを悩み、同じ苦しみを苦しんだ。だから、イエスはわが師になり得る。決して別世界の、人間的な弱さとは関係のない、単純な光の存在ではない。

 まさに、人間臭さを最後までもち、今でさえもそれを失っていない人なんだ——。

 そう思えるからこそ、イエスは二千年間、人々の希望でありつづけた。

 イエスの十字架上の苦しみは、人々の心にともし火をともし続けてきた。



 でもさ、本当にACIMの言うイエスだったとしてみなよ。

 十字架上で、おらぁ弱音なんて吐かねぇぜ! 神の子がみっともない。

 そんな人から何か学びたいですか? その人の言葉が、何かあなたの役に立つと思いますか?



●苦しみすらせず、精神性の高さでもって楽に乗り越えてしまう人から学べることなどない。

 その苦しみを苦しみとして感じ、対決し、その果てに自分なりの「回答」をもぎとった人物にこそ、学びたい宝がある。



 世の中の悲惨、理不尽に人々とともに苦しみ、悩んだイエスだからこそ、その言葉は人々の胸を打つ。十字架上で、世のために尽くしたのに裏切られ苦しめられ、一度は(我々と同じように)恨み言を口にしたイエスだからこそ、受け取り手は他人事ではない我がこととして、十字架物語を受け止められたのではないか。

 最初から、イエスは完全に悟っていたからヘーキノヘーザでしたよ~なんて、どこに人の胸を打つ要素があるよ。くだらない話!

 まったく、生きるための参考にならん。


 

 筆者としては、イエスは我々とそう変わらなかったとしておきたい。そして弱音を吐きはしたが、あとでそれをひっくり返したところに意味があるんだ、としておきたい。

 だから、「師にする価値」があるのだ。同じ弱さを持ったことがあるから。

 同じ失敗を、味わっているから。だから、そこに学びがある。気付きがある。

 完璧なお話からは、ほとんど何も学び得ない。



 最後に、参考までにひとつの情報を与える。

 ACIMは、マルコ15章の 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」を聖書の捏造とし、同時に 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」こっちの言葉は、真にイエスが言った、としている。

 学問上(聖書学上)においては、マルコの15章よりも、この「父よ彼らをおゆるしください」のほうが、信憑性が低い(実際にイエスが言ったとは考えにくい) とされていることを、ひとつの判断材料として提示しておく。

 まぁ、「実際に(霊的な)イエス本人に聞いたんだから! これほど確かなことはないだろう?」 という切り札を持ち出された日には、どんな議論もムダになるけどね。

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