断定口調はおきらいですか? ~そんなこと言ったら、イエスの言葉も読めませんよ!~

 筆者がお好きでない方から、たまに言われることがある。

「断定口調がキツく感じられてイヤ」「命令口調がイヤ」

 確かに。私の書く文章には、そういうところは多いかもしれない。

 しかし、そういう方に対して私が言えることは、ふたつある。



 ①だったらもう読まなくていいよ。

 ②それ、あなたの甘えだよ。



 フィーリングの問題、趣味の問題があるので、好き嫌いあるのはしょうがない。

 皆、自分の生きたいように生き、したいようにする権利がある。

 嫌なものは無視、あるいは関わらないという自由も権利もある。

 嫌なら読まないでいいよ、で片付けてもいい問題なのだが、参考になる人がいるかもしれないので、いい機会だから「なぜ私の文章が断定口調傾向になるのか」を、私なりに説明したい。

 もちろん、とどのつまりはインスピレーションをダイレクトに文字化しているに過ぎず、私自身のコントロール下のことではない(つまりは自我の自由選択の範囲ではない)ので、どうしようもないのだけど。



 イエス・キリストという人物がいる。

 キリスト教の信者だけではなく、スピリチュアル界でもイエスは名高いし、愛されている。ブッダと並び、これほど長い歴史上を通じて、愛され支持され続けてきた人物もいない。

 イエスの言葉、言行録が集められている聖書は、世界のベストセラーである。

 イエスの言葉を、聖書で読んでみられた方があるなら分かるだろうが——



●超断定調

●超命令口調



 ……なのである。もちろん、要所要所では社会的弱者に優しい言葉をかけているものもあり、イエスの懐の深さを感じられる箇所もある。しかし、圧倒的ボリュームでたいがいは断定調である。~と思うとか、~かもしれないなんてボカした言い方はほとんどない。(※聖書の言葉が、本当にイエス自身の言葉だったのか? というそこまでの議論は割愛)



 イエスの言葉は断定口調、命令口調なのに、なぜ支持され愛されるのか?

 そこには、ある決定的要素がある。



●すべての人を救おうとはしてない。



 その姿勢に秘密がある。

 何かを、「これは~だ」とか、「~しろ」という断定調で言ってしまうと、それを聞いた側は必ず二つの立場に分かれる。ひとつは、「まったく共感できない者」。共感できないので、内容なんかどうでもよくただ 「決めつけるように言われた」という部分のみが印象に残る。

 イエスは、最初からそっちの者はどうでもよかったと思われる。

「ご縁」がなかった。ただそれだけのこと。

 でも、ふたつ目の立場の者ができる。



●そこまで言われることで、救われる者。



 例えばあるスポーツ選手がスランプで自信をなくしているとする。

 監督がその選手に、「大丈夫! 君はスランプを脱する……かもしれないよ」 と言ったら?

 あるいは、「脱する可能性もあるかもね」とか。「ひょっとすると……」とか。

 ここはさ、選手を信頼している監督に、バシッと——



「君は必ずスランプを脱する!

 そして君はきっと素晴しい選手になる!」



 ……とこう言ってもらったら、どうだろうか。

 俄然、ファイトが湧かないだろうか、元気が出ないだろうか? うれしいくないだろうか?

 


 ある状態にある人は、時として極端にものを言ってもらう方がいいことがある。

 強固な偏りが、ちょっと断定的な言い方によって揺さぶられ、変化の可能性が生じることがある。

 ここで、あいまいなことや無難なことを言っても、きっとそれは揺り動かせない。

 その人が本当に聞きたいことを、ズバッと言い切るから、相手も安心する。

 だから、その言葉を聞きたい人、そう言ってくれるのを待っていた人以外は、単に腹を立てたり嫌な気分になったりするだけになる。



 私は、そういう「しっかり言ってもらうことで、苦しい蟻地獄に囚われていてなかなか自力では出られない人に、強めの推進力を与える」役割をしている。

 それ以外の人には、必要じゃない人がたまたま私の書く記事を見て「お目汚し」をしてしまって不快にさせたなら、それはごめんなさいね、ということになる。だから、この活動は「色々言われながらになる」ことは織り込み済みでやっている。

 現に、一部の方からは 「筆者さんがそこまで言いきってくれたので、元気が出ました」という声もあるのである。大勢に好かれはしなくても、そうやってどこかの誰かに寄り添えたなら幸せである。



 断定口調嫌いって、あなたは 「カレーの王子様」しか食えないお子様か?

 スピリチュアル・メッセンジャーがみな巨人の星の明子お姉さんみたいだったらどうする。まぁ、軟弱な世界になるでしょうな。優しいことしか言わない。

 包み込む優しさとか、相手の気に障らないものの言い方は時として大事ではある。

 だが子育てと同じで、子どもを叱らない、泣かさない、いつもいい気分でいさせるなんてことを頑張ったらどういう子に育つか、考えてみたらいい。

 私みたいな役割(星一徹?)も、この世界には必要なのだ。

 だから、今ここにおいて、私は存在ししゃべり、本まで出している。

 起こるべきでないなら、起こらない。

 もし、私が必要なくなったら、私は消える。

 ただそれだけのことであり、私は諸行無常のこの世界で自分がどう扱われても、覚悟はしている。

 その時に、現実が与えてくることを受け止めるだけである。



 断定口調がイヤなんじゃない。そういうことを言う人だって、自分が好きなメッセンジャーが多少きつい口調で何か言っても、「そうですよね! 肝に銘じます。ありがとうございます!」になるんだから。結局、断定口調に問題の焦点なんかなくて、個人の好き嫌いですよ。

 結局、本当の自分の課題に向き合いたくないので、「断定口調がいや」というところにフォーカスして逃げることで、自分を守っている方もいるということだ。



 結局、断定口調がよくないとか優しいのがいいというところに問題の本質はない。

 あなたが今その内容を必要としているかどうかだ。

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