私は、有って有る者 ~僕が僕らしくあるために~

●神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」



●神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。



 旧約聖書 出エジプト記 3章14節 (それぞれ新共同訳・口語訳)



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 とある、スピリチュアル指導者のブログを読んだ時の話。



 その方は、キャラ的にちょっとイケイケゴーゴーな方。

「幸せになってごめんあそばせ!」「私ってチョースゴー」 なノリの方。

(もちろん、それにいい悪いもない。あなたがついていきたいかそうでないか、好きか嫌いかだけの話)

 おそらく、誰かしらに暗にこういうことを言われたのだろう。



●本当に素晴らしい人は、自分でそれを言わないもの。

 周囲の人に自然にそれを言わせる力があり、自分ではあえて「私ってスゲー」系のゴリ押し発言はしない。



 これ、裏を返せばというか、深読みすると『自分でそれを言ってちゃニセモノ』的な批判が、チラッと見え隠れするでしょ。きっとこの発信者は、それに反応したのね。その批判は的外れではないか、的なメッセージを書いていた。

 まず自分が自分を素敵と言ってあげないで、どうする? 誰が言ってあげられる?

 待ってたら他人が言ってくれるほど世界は甘くはない。まずは、自分が誰より先に自分のこと認めてあげないと! 

 だから、自分で自分をすごいと言って騒ぐべきではない、それは他人に言わせるだけという『真の指導者の定義』は、決してどんな時も正しいとは言えないのではないか? まぁ、そんな趣旨のコメントだったかな。



 うん。私もそれは反対ではない。むしろ同意する。

 筆者は常々、「常に反対同士のものがペアで必ず成り立つ」と言ってきた。

 陰陽の世界。二極のバランスの世界。あらゆる可能性が成り立つ世界。

 だから、「モノホンは自分で自分を評価する言動をしたりアピールしなくても、自然に周囲が価値を認める」ということも成り立つ場合があるし、「個性として、キャラとして悪気なく俺ってスゲー系なだけで、別に間違っちゃいないし、その人のスピリチュアル指導者としての資質にはなんら関係も問題もない」ということも成り立つ場合がある。 

 ただ、同意はするが同時にこうも思ったことも事実である。



『まだ、そこのレベルの戦いをしてんの?』



 自分をすごいと言っていいのか悪いのかとか、自分を認めたらいいとか自己受容(自己肯定)できないから不幸なんだとか、その感覚がもう私には??である。

 過去に私も、自己受容は大切だよ、ということをリップサービスとして書いたかもしれないので、一応ここで「自己受容」あるいは「自己肯定」ということについて筆者なりのスタンスを明記しておく。



●どうでもよろしい。

 できるならしたらいいし、できないならしない。

 無理をしない。

 てか、無理をしたからできるもんでもない。

 無理をしなくても、不可抗力の気付きが起きたなら、できる時はできてしまう。

 つまり、自己受容は意図的にしようと思ってする性質のものではない。

 コントロール不可なものだから、放っておけばいい。



 悟り系スピリチュアルの話題でお馴染みの、「執着」の話があるでしょう。



●欲しい、と強く願うということは——

 裏返せば 「自分はまだそれを得ていない」 ということを宣言しているのと同じ。



 引き寄せ系の話題でも、これを指摘することがある。

 だから「欲しい欲しいクレクレ左衛門」になるのではなく、「もうすでにそれを得ている」心の在り方になればいい、という指導がある。それをすでに持っている自分をイメージングして、在り方として豊かになる。そうすれば、おのずとその欲しい何かが引き寄せられる……。

 私はこの考え方に賛成ではないが、皆さんがあくまでそう言うなら、私もお言葉を返そう。



●だったらさ、「私ってスゲー」ってさ。自己受容をあえてしましょう!ってのはさ。裏返せば「実はどこかですごくないと思っている」「自分は今自己受容ができていない」ってことの裏返しの可能性がなくない?



 自己受容できていたら、いちいち力を込めて口にしなくて良いわけである。

 アファメーションなんて、なんでやりますか? 願望実現のため以外にある?

 しかも、まだ叶っていないからこその願望実現を目指す行為(アファーメーション)でしょ?

 ということは、非常に失礼だがあえて言うと 「実はあなたはイケイケ幸せを演じていらっしゃるけど、実は心の奥底では不安と弱さを一生懸命隠していらっしゃるんじゃないの?」と言いたいのだ。おれスゲー系なことを発言するスピリチュアル指導者って。

 で、自己防衛から顕在意識ではそれに気付けないように、周到に仕掛けがしてある。だって、そこに自覚的になれてしまったら、正直に全力でそのキャラできなくなるもん。

 この世に、スゲー人なんていない。

 ただ、その人である人がいるだけだ。



 私は自己受容などという言葉、人から話題で出されないと思いださない。

「私は自己受容できてます」なんて認識も、露程もない。

 いや、そもそも「自己受容できているか、いないのか」を判定して気にする次元を生きていない。

 小学校の先生は、生徒に足し算引き算やあいうえお、簡単で基本な漢字を教えるが、先生自身はもうそのレベルにはおらず、もっと難しい高度なことが、その先生のリアルで等身大な課題のはずだ。小学生と一緒に同じ問題で悩んでいるはずがない。

 だから、もし私がこの書で「自己受容が大事だよ」なんて言葉を口にすることがあれば、それは私自身に限って言えば実はどうでもいいことを、あえてまだ戦いが前段階の人向けにサービスで言っている、と考えていただいて構わない。

 今回私が取り上げた指導者は、どうも指導者自身がまだそこの戦いから抜け切れていない感じがする。突き抜けて、大人が小学生に算数を教えている感じがしない。メッセージとして言っている内容を、自分も今同レベルで頑張っている感じがする。



 今の私には、自己受容が大事なんてほんとうにくだらなくてもう言えない。

 もうちょっと細かくちゃんと言うと——

 自己受容そのものがくだらないというわけではない。

 それは結果論(気付いたらできていたことが観察されるだけのもの)に過ぎないから、「意図して、意識的に自己受容しよう、これからするぞ! みたいにやること」をくだらないと言っている。自己受容そのものではなく、やろうとしてやれるものだという勘違いを指摘している。

 でも、この世界にはトラップが多い。あなたが自己受容できたと思えたそのタイミングと同時に、あなたの主観において「良い変化が起こった」と観察される出来事がたまたま起きることがある。

 そこで、あなたはこういうストーリー付けをしたい誘惑に駆られる。



●ああ、これは私が 自己受容できたから (原因)

 → こんないい変化が起きた (結果)。



 そういう、都合のいい物語にしてしまう。

 もちろん、その人が幸せなら、別に問題ない。害はない。

 ただ、それを「法則化」して「みなさんも、これで間違いなく幸せになりますよ!」みたいに商品化し、商売化しだしたら社会の害悪になる。そんなこと、確実には立証できないからだ。

 個々のシナリオによっては、自己受容ができたと自分で思っても、その後現象として悪いことが続き死んでいく人もいる。決して、こうしたからこう、という単純な因果予想では割り切れないのがこの世界。

 自己受容できたら幸せになれる、なんて全然保証できない。

 多分、それができても半分以上の人はお金持ちにも有名にもならないだろう。

 それどころか、経済が上向きにすらならないかもしれない。

 なぜなら、人格的向上と起きる出来事との間に、直接的因果はないからだ。

 ひとつだけある。あなたが現象に対して施す「解釈の質の向上」により、出来事の如何に関わらず幸せを選択できる、という部分で意味はある。しかし、そこには限度もあると知らねばならない。

 程度の軽い不幸なら解釈で乗りきれるが、そうもいかない不幸もある。(子どもの死とか)



 聖書の中で、モーセという人物に神はこう自己紹介をしている。



●I am that I am.


(私は、在って在る者。つまり、自分で自分を在らしめている者)



 我々人間は、宇宙の主人公とは言えども、自分と認識できる範囲の自分では 「神として世界を創造したわけではない」 いち分離キャラであるから、謙虚に言えば 「自分で自分を在らしめている」とはどうしても言えない。

 やっぱり、気付いたらこの世界に生まれていて、こういう風に生まれるなんて全然決めた覚えはないということが大半なのだから、やっぱり全部自分の仕業ではない。

 何者かに、生かされている。(ただし、その生かしている存在と生かされている自分とは同一存在、という話に持っていくのは煩雑になるし二元性では議論する意味がないので、それは賢い論理展開とは言えない)

 ただ、我々は神そのものではなくても、こうは言える。



 I am what I am.


●私は、私である者。

 皆さんごらんの通りの私である者。 

 私は、今の私のようでしかあり得ない者。

 この瞬間どうあがいたって、この私でしかいられない者。

 だから、それを受け入れるも何も、そうでしかないのだから。

 


 筆者は、自己受容できているかどうかの次元ではない、今申し上げたこっちの在り方をしている。

 どんな自分であっても、今その状態なら自分のエゴの都合など関係なく、「もっとこうであるべきだ」なんて判断に関係なく、「それがベストであるから起こっている」と考える。

 本気でそう考える魂に、自己受容など意味は皆無である。

 だって、(油断したらそう思えないけど)自分を良いと思おう、ってことでしょ?

 良いことも悪いことも全部含めて自分、と口先だけでなくそう思えるレベルの人間に、自己受容など用済み。小学校の授業は、もう要らない。



 でも、だからといって 「自己受容できた~!」と達成して、その状態が死ぬまで続くということはない。人間はどんどんその旅路を進めていくので、達成されたことは達成される前ほどの感動と喜びになることはなく、空気のように「当たり前」になっていく。

 小学1年の頃、いちたすいちはに~!(たんぼの田?)と覚えて「僕ってスゲー」 と思えていたあの頃はもうないはずだ。日頃あなたは、ひとけたの足し算ができたからといって、いちいち感激しないはずだ。

 初めて自転車に乗れるようになってうれしかったあの少年時代も、今ではさほど思い出さず、普通に自転車に乗っていると思う。

 


 自己受容とは、皆それが達成されるまでは、妄想を膨らませて亡者のように欲しがるが……一度達成されてしまう(達成と言うより、もうそれがどうでもよくなる次元)と、もうそれは全然顧みられなくなる。要するに、エネルギーを膨大に使って考えても、仕方のないこととなる。

 ま、考える価値のないこと、ってこと。

 自分は価値がある。すごいんだ。素敵なんだ、って力技で考える暇とエネルギーがあるんなら、やるべきことをちゃんと正確にやって、社会的責任を果たすほうが大事よ。そっちのほうが、精神論で自己受容に取り組むより、もっと早く幸せになれる人も多いと思う。

 自己受容系スピリチュアルや自己啓発・心理学に頼っているが、最近その効果にはなはだ疑問な方! 騙されたと思って「(自分はできてないから)自己受容しないと!」という頑張りから、強迫観念から自由になってみませんか?

 幸せをつかむ道は何も自己受容だけの専売特許・独占市場ではない!

 そんな懐の狭い世界ではない。

 それができている、できていないを考えないで済む世界こそ、「達成した!」というより100倍も価値があるという真実。



 みんなヒマだから、頑張って自己受容なんてヘンなこと考えるのさ。

 だから、忙しくなりなさい。

 ただ、お金のためにする仕事やすべきこと(義務)で忙しいよりも——

 あなたが本望なことで忙しくなるようにしなさい。

 そうすれば、わざわざスピリチュアルなど勉強しなくても、気付きが押し寄せる。

「スピリチュアル実践者」という肩書をもつ人の倍のスピードで、上にたどり着く。

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