ルツ記 ~ある目的をカムフラージュするために書かれた美しい物語~
旧約聖書に、『ルツ記』と呼ばれる文書がある。
ルツという、当時モアブ人と呼ばれた民族の女性がこの物語の主人公である。
物語を読む前知識として、ユダヤ人はモアブ人をちょっと下に見ていた(差別していた)ということを知ってから読まないと、意味が汲み取れない。
ユダの民であるエリメレクという男は、ナオミという女性と結婚し、事情あってモアブという土地に引っ越した。生まれた二人の息子は、その土地の女性とそれぞれ結婚した。
しかし、やがてエリメレクが死に、さらにその二人の息子まで死んでしまう。
二人の息子の嫁はそれぞれオルパとルツという名前だった。
ナオミは、二人に言う。
「私は、夫の故郷であるユダに帰ります。あなたたちはまだ若いし、将来もある。それぞれの故郷に帰って、また幸せをつかみなさい。私のそばにいる必要はないのですから」
それを聞いて、オルパは去って行ったが、ルツだけはナオミのそばに居続けることを望んだ。
どんなになだめすかしても、ルツは頑として言うことを聞かない。ナオミも最後には折れて、二人してユダの地へ帰ることとなった。
当然、モアブの地にいたというだけでも印象が悪いのに、モアブ人の女性まで連れ帰ってきたナオミたちに居場所はなかった。肩身の狭い思いをすることとなり、食うものにも困った。
当時の文化的風習として、貧しい人が麦の刈り入れ時に出る落穂を拾うことは一種の権利として認められていた。ルツは、そのような屈辱的な行為に甘んじて飢えをしのいでいた。
そのルツの姿が、ボアズという畑の所有者の目にとまった。
ボアズは、逆境にもめげず姑のナオミのために尽くすルツの姿に、痛く感動した。
その時から、ボアズはルツが落穂を拾いやすいように便宜を図ってあげるようになった。
ある日のこと、ナオミはルツの話から、ボアズという人物が自分の遠い親戚であることに気付き、ルツは彼に結婚を申し込む権利があることを知る。(「レビラート婚」という特殊な結婚に関する決まりごとがあり、夫が子どもを残さずに死んだ場合その弟、弟がいなければ次に近い親戚というふうに、誰かが責任をもって結婚するという特殊な決まりがあった)
そして、ナオミは求婚大作戦を立ててルツに実行させ、信じて実行したルツの勇気と努力が実を結び、めでたく二人は結婚する、というハッピーエンドな物語である。
この物語は、嫁と姑の絆を描いた美しい人情物語とも言われ、前向きに生き、希望を忘れない不遇な女性のシンデレラ・ストーリーとして読まれることが多い。
しかし、実のところそれは全然違う。
この物語の真意は、実はとんでもない部分にあった。
物語のラスト。ルツはボアズとの間に子どもをもうける。
聖書には、こう書かれている。
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ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。
近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。
ペレツの系図は次のとおりである。ペレツにはヘツロンが生まれた。ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。 サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。
オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。
ルツ記 4章16~22節
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最後に、めっちゃサラッとこう言って、物語は締めくくられている。
実は、ここにこそこの物語の生まれた理由がある。
「ダビデが生まれた」と書いてあるので分かると思うが、結局ルツが生んだボアズの子は、数代のちにあの有名な『ダビデ王』を生みだしているのだ。
……ということはですよ。それは、なんとイエス・キリストにまで血筋はつながっていくのだ!
ルツは、異邦人(ユダヤ人ではない、差別される側の民族)出身でありながらユダヤの偉大な王の祖先に名を連ね、それどころかイエス・キリストの先祖にすらなっていく、という事実である。
当時のユダヤ人には、「選民思想」というものがあった。
自分たちこそ、神に選ばれし民であると。神に祝福された民であると。
そんな中でこの事実を世間に発信するのは、簡単ではなかった。偏見や差別もあったから、ストレートに「神の選びは、人種や民族によらない。他民族でも平等に、神の選びに入ることはある」ということは、他民族に対する優越感を持っているユダヤ人に言ったら、ブータレ文句が出てきてもおかしくない。
ストレートに言ったら絶対反発されるので、ある『作戦』を立てた。
そこで作られたのが、ルツというモアブ人とボアズとの間にできた子どもが、ユダヤの王の血統に入ったという事実部分以外の「ルツとナオミの嫁姑物語」である。
このように、美しい絆の物語、貧しい被差別民族出身の娘のサクセス・ストーリーにしてしまえば、読者の目と関心は感動的な物語の方へ行く。で、最後に付け足し程度に「ルツの子孫はダビデ王を生んだ」と書いておけば、いきなりそれを言うより心理的抵抗は薄まる。
意地悪な視点で言えば、実は感動的な物語などどうでもいいのだ。それはただ、ユダヤ民族以外の異邦人すら神は相手にするよ、差別しないよという事実をうまく伝えるための「ダシにされた」のである。
そういう視点で切り取れば、この物語の様相はガラッと変わる。
このことから学べる教訓は、「分かりやすい見た目の外側に騙されるな」ということである。
物事の実際のところは、あなたが簡単に観察した以上に、深い事情をはらんでいる可能性がある、ということだ。だからあなたは、単に物事や事件や人の表面をなでて、「何かを分かった気になる」ということから注意しなさい。
私たちは、目の前にぶら下がっている、いかにも分かりやすい情報に目を奪われやすい。もちろん、特に裏や奥などなく、観察したそのままを受け取って差し支えないケースだって多い。ただ、油断してはいけない。
まれに、あなたが見た目や印象だけで判断して、その実を見誤るケースは生じる。
あなたが何かを価値判断し、評価を下す場合。次のふたつを意識してみるといい。
①目の前の何かがあなたに告げようとしている本質は、本当にあなたが認識しているところの『それ』か? 目立つ部分に目を奪われていないか? そこにちょっとでも「自分の好き嫌い、都合」という要素は混入していないか?
②上記を一度考えて「大丈夫」となっても、面倒でももう一度考えてみる。そこで無理くり感がなかったり、自然に一度目と同じことを思えたなら、まぁそれで行ってよし。
一流の鑑定士は、すぐには生まれない。相当の訓練と実践の場数を踏んで、やっとなれる。
ローマは一日にして成らず。
あせらず、失敗も学びの機会だからそれもよし、くらいの気持ちで進まれたし。
きっと、目に見えるもののその「奥」を見通す眼が、養われていくことだろう。
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