エリシャによる幼児連続殺人事件 ~話の見た目に騙されるな~

 エリシャはそこからベテルに上った。彼が道を上って行くと、町から小さい子供たちが出て来て彼を嘲り、「はげ頭、上って行け。はげ頭、上って行け」と言った。

 エリシャが振り向いてにらみつけ、主の名によって彼らを呪うと、森の中から二頭の熊が現れ、子供たちのうちの四十二人を引き裂いた。



 旧約聖書 列王記下 2章23~24節



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 キリスト教が西欧世界ほどに当たり前でない日本では、エリシャという人物はそう知名度が高くないだろう。聖書の登場人物ならイエスやモーセ、人類始祖のアダムとイブ、アベルとカイン、箱舟で有名なノアくらいしか平均的な日本人は知らないのではないか。

 エリシャというのは紀元前9世紀頃にイスラエルで活躍した『預言者』(予言ではなく、神の言葉を預かって皆に伝える、という意味)である。これまた偉大な人物である「エリヤ」という人物の弟子である。

 イエスのように、数々の奇跡を起こした人物として伝えられている。



 エリシャを、イエスに並ぶ神の使者という前提で聖書を読んでいくと、必ず違和感を抱くのが今日紹介した聖書箇所である。エリシャは偉大であったが、残念なことにルックスはビミョーだったらしい。どうも、頭髪に関しては恵まれなかったようなのだ。(アデランスにお世話になるべきレベル)

 ある時、彼が大事な使命のため目的地に向かって歩いている途中、子どもたちが彼を見て「ハゲじじい」とバカにして、はやし立てたのだ。

 エリシャが神の使者であるということは、イエスほどではないにしても「ある程度の人格者であり、愛のある人物」と考えても全然不自然ではない。その感覚でいけば、子どもにちょっとくらい「ハゲ頭」 とからかわれた程度なら、「元気があってよろしい」くらいに寛大に受け流してもいいじゃないか、と思ってしまう。

 でも、聖書の伝える話によると、エリシャは子どもを呪い殺してしまった。しかもその数総勢42人。現代の連続殺人犯など目じゃないほどの重大犯罪である。



 クリスチャンは、ここをどう解釈したらいいか分からないので、「読まなかったことにする」。あるいは、なるべく考えない。牧師も、そうそうこの箇所は礼拝説教の題材には取り上げない。聖なるものをバカにしてはいけない、という教訓であるとしても、失敗の代償が子どもの命だというのは、たとえ話としてやりすぎで不適切だ。

 この箇所を、「エリシャという人物の是非や評価」という側面から読もうとするなら、それは浅い読み方になる。一般の方がここを読んで 「エリシャってだめじゃん」「残酷なヤツ」という感想になるのは仕方がない。でも、少なくともスピリチュアルを追求しているという立場の人間がそれだったら、ちょっと情けない。

 スピリチュアル実践の必須アイテムが、あなたには備わっているだろうか?



●(エッセンス)抽出能力 



 それは、今日紹介したエリシャの子ども惨殺をどう捉えるかでも判定できる。

 残酷、とかそこまでしなくても、という感想ならアウトである。



 これは実話として読むより、エリシャの人となりを伝えるエピソードとして読むより、「象徴」「あることを言いたいためのたとえ話」として読む方がいい。 

 エリシャは、紛れもなくイスラエル王国に貢献した偉大な人物である。

 それを、よく知りもしないでハゲ頭だけを見てからかった子どもたちは、文字通り子どもたちのことを指しているというより——



●物事の目立つ一側面だけを見て、よく知りもせずあたかもそれがその人物のすべてであるかのように、実際の価値を見誤る残念な人のことを、子どもとして表現した。



 で、エリシャ個人がハゲと言われて(図星なので)カチンと来て大人げなく子どもたちを殺した、というのではなく、この場合のエリシャは、人間ではなく——



●その物事の価値にふさわしい扱い方がなされるべきところを、見誤って不適切な扱いをしてしまうことへの、その不足差分を宇宙的に要求する「バランス保持の法則」。それは原則だから「無感情」なので、やるべきことをやるのみ。



 つまり、人間が偏見によって何かの価値を見誤り、それに不適当な対応をしたら、どこかでその差分を要求されるようなことが起きるから、軽々しく人を評価しないほうがいいよ(特に批判的なことは)、という教訓。

 42人殺された、というのは「数が多い」ことの象徴。

 実際も知らないで人を批判し、結果ろくなことにならない人は世の中に多い、ということ。



 象徴としてこの物語を読めば、そんな「エッセンス」が抽出される。

 抽出されたエッセンスには、「ハゲ頭」も「にらみつけて呪い殺す」も「熊が裂く」も「42人」も残ってはいない。ただの人生訓であり、地の視点からの宇宙法則である。

 推理小説などもそうだが、引っかかるのは人間が「目の前に分かりやすくチラつかされているものに思わず注目してしまう弱さ」をもっているからだ。

 その目立つ情報を超えて、その奥にある「本当のところ」を見極める力のある人はそう多くはない。見極めるのにはヒマも労力もエネルギー(情熱)も要ることなので、誰もがたやすくできることではない。



 何でもかんでも疑って、突っ込んで調べろ、とまで酷なことは言わない。

 しかし、単純な印象や他人の意見への同調で何かを否定的に見ようとする時、実際を見も知りもしないで評価を下そうとする時、ちょっとこの話を思い出してほしい。

 たとえ詳しく調べるわけじゃなくても、『保留』にすることくらいはできるんじゃないかな。 

 つまり、結論を出さずにその話題は放っておけ、ということ。

 やればできると思う。人は何でもきっちりランク付けして、情報を仕分け棚に整理しないと気が済まない、という面倒な傾向があるが、矯正は可能だ。

 何かの良い悪いを決めなくても、生活には問題ないはずだ。そのことを忘れて生きればよいのだから。あなたがいい悪いを適当に決めるような対象は、あなたの実生活にまず関わってこないような人物がほとんどだろうからだ。

 


 少なくとも宗教やスピリチュアルやってます、と自分で言うくらいの人なら——

 話を鵜呑みにするスペックレベルを超えて、そこから大事なエッセンス(話の精髄)を抽出でき、要らない話の装飾部分を無視できるスペックを持ててほしい。

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