近親相姦だから、悪? ~ロトの娘たち、父親と子作り~
【ロトの娘たち】
ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。
ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。
姉は妹に言った。
「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」
娘たちはその夜、父親にぶどう酒を飲ませ、姉がまず、父親のところへ入って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
あくる日、姉は妹に言った。
「わたしは夕べ父と寝ました。今晩も父にぶどう酒を飲ませて、あなたが行って父と床を共にし、父から子種をいただきましょう。」
娘たちはその夜もまた、父親にぶどう酒を飲ませ、妹が父親のところへ行って寝た。父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった。
このようにして、ロトの二人の娘は父の子を身ごもり、やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。
創世記19章30~37節
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さて。一読された感想はいかがでしょう。
とんでもない! 汚らわしい!
だって、娘と父親が……その……ですよね?
でもって、子どもができたんですよね?
あり得ない!
だいたい、そのような感想に落ち着くのではないか。
まぁ、気持ちは分かる。
しかしこのお話には、まったく別の視点で見る余地があるのだ。
聖書を研究したことのある人は少ないと思われるので、詳しく解説をしながら新たな視点を探っていこう。ただ、学術的にならないように、ある程度大雑把で平易な説明になるよう、試みる。
まず、ロトとその娘たち、とは何者か。
「ソドムとゴモラ」というお話を聞いたことがあるだろうか。
あまりにも、罪と悪にまみれた街だったので、神が滅ぼそうとしていた。
でも、ロトという人物は他の人たちのようではなかった。「神を知る」人物でもあり、旧約聖書に出てくる重要人物、アブラハムの甥っ子でもある。
だから、神はロトとその家族に、街を滅ぼす前にお逃げなさい、と教えた。
逃げる際に、「決して後ろを振り向くな」と戒められる。
なのに、ロトの妻は後ろを振り返ってしまい、塩の柱になってしまう話は有名だ。
で、彼らは文中にある「ツォアル」という街に逃げ延びる。
でも、その街も被害のとばっちりを食う。
ロトとその家族に罪はないわけだが、被害に遭った街の人々は、皆が皆できた人たちではない。
「あいつ(ロト)が元凶じゃない? あいつのせいで、ここら一帯が滅びたんじゃ? だってさ、一番被害の激しかったソドムとゴモラにいて、無事だったのはあいつらだけなんて、そんなの怪しすぎるじゃない!」
そういう噂がたったのだろう。
もう、街で暮らすのは針のむしろ状態である。
仕方なく、人里離れた洞窟に隠れ住んだものと思われる。
さて。
次の解説に行く前に、ひとつ知っておかないと意味が分からない、ヘブライ人の考え方がある。
それは——
●永遠の命、というものに対する考え方。
我々が永遠の命と聞くと、自分が不老不死にでもなり、永遠に生きるようなことをイメージするのではないか。
でも、二千年前のヘブライ人たちは、独特の発想を持っていた。
●自分が死ぬことは、別に問題ない。
要は、自分が子をもうけ、その子が成長してさらに子どもをつくり——
子々孫々と、血統が残っていく。命が連鎖していく。
それを途切れさせないことこそが、「永遠の命」と考えた。
だから、その時代のその地方の人々は、子どもを産んで世代を繋ぐことを、何よりも一番大事なことと考えた。それができないということは、この時代の人には大変辛いことであったのだ。
別に子どもいらないや。そんなに欲しいと思わないし。自由がいいし。
……と産まないことも選択もできる今の夫婦の在り方に慣れた現代人には、びっくり仰天であろう。
だから不妊とか、子のできない夫婦は今の時代よりも、もっとつらい思いをしたと思われる。
で、ロトの娘ふたりも、やがて「結婚適齢期」を迎えた。
子を産める体になったのだ。
でも、重大な問題があった。
洞穴に住むロト一家は、誤解からとはいえ街の人から嫌われて、村八分の目に遭っていた。つまり、喜んで結婚してくれるような男性など、外で見つけようがなかったのだ。
そこで、娘たちは何を考えたか。
子孫を残すことは、私たちの使命。
私たちの血統は、偉大なアブラハムをはじめとして、代々神に祝福された家柄。
ここで、血を絶やすわけにはいかない——
そう決心した二人の娘は、交代で父と性交するのだ。
予備知識なくこれを読む人が、「近親相姦」という表面上のことに囚われて、「
でも、二人の娘にしてみれば、命がけだったのだ。決して性欲の話などではなく、絶望的な状況においてさえも子孫を残そうとした、娘たちなりの「真剣勝負」だったのだ。
本文中に、父にはブドウ酒を飲ませたので、父は酔って気付かなかった、とある。
多分、ウソだ。
皆さん、想像できます? エッチされて、事が終わるまで全然意識が戻らないって。強度の睡眠薬なんてこの時代にない。全身麻酔を受けたわけでもなし!
いくらお酒で酔っていたとはいえ、自分に接触してくるのは可能性として娘以外にはあり得ないと分かっているんだから、生理的な危機管理能力がただでさえ敏感に働くはずなのに。
私は、こう思う。
●父親も、分かっていた。
何をされているかの自覚は、あったはずだ。
でも、父親には痛いほど分かったのだ。
永遠の命を守る抜こうとする娘たちの本気が。情熱が。決意のほどが。
だから父も、「バカはやめろ! なんてことを!」なんて突き放したりしなかった。父として、この場面で娘たちにしてやれたことは、ただひとつ——
娘たちの心理的重荷を少しでも軽くしてあげるために、「意識のないフリ」をし通してあげることだけだった。姉の場合と、妹の場合の二回とも。
そして結果として、人々に見捨てられ洞穴に追われた家族は——
見事に、子孫を残すことに成功したのである。
子どもは、のちに増え広がり、「モアブ人」という一大勢力となった。
「ルツ記」という旧約聖書の物語の主人公ルツは、モアブ人である。
そしてそのルツはボアズという人物と結婚し、後に「ダビデ王」を生み出す血統になる。そして紀元前の最後に、イエス・キリストが生まれることに!
皆さん。この二人の姉妹、そして父ロトは、偉業を成し遂げたのだ、と言えませんか?
どうでしょうか。
私たちが、いかに乏しい情報で勝手な判断をしているかの気付きになりましたか?
見た目の現象に惑わされ、本質を突かずに判断してしまっていることは多い。
人を批判したくなった時。
相手だけがただ本当に「悪い」というケースは、ほぼありません。
まず考えられるのが、「情報不足」です。
相手の事を、よく分かっていないから生まれる誤解がほとんどです。
ガリレオシリーズの劇場版 『真夏の方程式』という映画もそれがよく分かります。殺人事件が起きた、という話だけ聞けば、どんな事情があろうと殺人は良くない。犯人が悪い——。簡単に、そういう判断になります。
でも、映画を見ている側は、犯人の人生を最初から、つぶさに追っていくことになります。映像を通して、追体験することになります。そして、犯行に及ぶまでの事情と、心の動きの一部始終を知った映画の観客は、事情を知る前の、犯人に対する気持ちと同じではいられなくなる。
裁けなくなる。
私がその立場でも、同じことをしないと言い切れるだろうか?
そういう謙虚な気持ちになる。
だから、このように「視点を変える」という行為によって、世界はずいぶん変わります。
あなたが意識の上で望めば、それはいとも簡単に起こせます。
あなたが、今ここで幸せを感じることができない時。
感謝の気持ちが、湧いてこない時。
自分が被害者にしか思えない時。
絶対に、突破口はあるんだと信頼してください。
どんな状況でも視点ひとつで、ガラリとひっくり返せるのがこのゲーム世界の面白いところなのです。
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