神は知恵を愚かなものとする ~知恵の半分は優しさであるべきだ~

 わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。

 神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。



 だれも自分を欺いてはなりません。もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために (※いったん) 愚かな者になりなさい。



 新約聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章19・20節、3章18節

(※は筆者が良かれと思って勝手に挿入)



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 私たちは、自我という外界認識システムを使って活動をしている間、常に何をしているか?

 散歩する、勉強する、旅行に行く、仕事をする。

 そういうことはさておき、もっと意識の根本的な部分で、常に何をしている?



●常に、入ってくるすべての情報に対して、自分を安心させる解釈を施す。



 これは、自分にとってこういうこと。こういう意味がある。

 これはイヤ。あれは好き。これはあいつが悪い。これは、やっぱりあんなことをした報いかな?

 私たちの、この次元内でのスペックとしての 「頭脳 (賢さ)」というものは、常に自分というものを守りぬき、ある程度快適に生存させるための武器である。

 あらゆるものを自分を中心軸に解釈して、情報を整理して生きている。

 これを毎秒処理しないことには、人は安心して生存し続けられない。

 この「解釈」が群を抜いてうまくできる者が、尊敬を集め、宗教指導者やスピリチュアルリーダーになったりする。ただ、ここでひとつだけ問題がある。

 この現象界への解釈の付け方が上手だということと、本質な意識上の「悟り(覚醒)」とは関係がないということだ。



 私は、どちらかというと細かいことはいいや、と思っている。

 飛びぬけたこの宇宙への洞察力、解釈力が悟りに根差したものでもそうでなくても、人が喜び皆の人生のヒマ潰しになるなら、それはそれで結構なことだ。でも、あくまでも「悟り」を追求したいという人がいるなら、ひとつ言っておこう。



 その賢さは、ただ知識や体験の蓄積を通し普遍的共通項を割り出して「正攻法」で得たものなのか。それとも、この世の知恵を限界まで求めた結果、この世界における「賢さ」をいったん破壊・解体された上で、再び生まれ直った賢さなのか、の違いがある。

 前者は、この世界で単に「頭がいい」 「優れた知恵者」 というだけのことである。後者のほうは、「悟り」 と呼ばれる。



 最初に紹介した聖書の言葉は、この世の知恵をケチョンケチョンにけなしている。

 私の書くジャンルは、辛うじて「スピリチュアル系」に指が引っかかっているので、キリスト教は「神の知恵」を持ちあげているところを、ここでは「覚醒意識」と言い換えておこう。

 それは、私たちがイメージする「頭の良さ」とは全然違う。

 私もペンネームで「賢者」などと名乗っているが、それは私は頭がいいぞ、何でも知っているぞということを意味していない。私の知恵は、いったん崩壊して(解体されて)、まったく良く分からん別の質のものになった。

 もちろん、厳密には私は過去も今もこれからも(死ぬまで)私であって、何かが変わったわけではない。ただ、自我意識という視点からは、「私は変わった」という感覚でどうしても捉えられる。



 この世界の枠組みの範疇の知恵では、人は常に自分という個を最優先に生かし、快適にさせるための本能をもって、自分のために最大限都合の良い解釈を施し続ける。

 その頭の良さだけでは、時にバランスを欠く。

 自分さえ良ければいい。他人は知らん。そういう方面に知恵が使われる時、世界に苦は満ちる。ドラゴン桜というドラマで、阿部寛演じる桜木先生はこう叫んでいる。



●この世の中はな、全部頭のいいやつの都合のいいように作られているんだ!



 これは悲しいかな、的を射た指摘である。

 この世の知恵を極めても、他人より優れた立場の人生を勝ち取っても、それはそもそも「なぜ人間として生きて、この地球ゲームをやっているのか」という勝利条件からしたらズレた話。

 自分の肉体だけ快適に、快楽を得続けて畳の上で死ねても、何のスコアにもなっていない。

 今日、結論として言いたいことは、ふたつの選択ということである。

 ひとつは、意図して選べたり実現できたりする話じゃないので、知っておくだけでいい。もうひとのほうを、覚えておいてほしい。



①(これは頑張ってもムダ)あなたの中で、知識の崩壊と再構築が起きる。(目覚めのことを指す)


②①はなるときになるため、普段は「その知恵に優しさは含まれているか」を気にする。



 私は、別にこの世界の知恵の枠組みでも十分、と考える。

 悟りなど、血が騒いでどうしても求めたいのだ、というんじゃなければ皆が一様に追い求めないといけないものではない。

 そもそも、「こうじゃないといけない」なんて決まりを、この世界を創った者は定めていない。

 今のあなたは十分じゃない(悟っていないから、魂の成長をせよ)とメッセージしてくる宇宙は、どんだけ冷たいのか。そんなの、好きにさせやがれ、である。

 だから、①は起きる時に起きるので、我々にできることは今を充実して生きることである。

 充実とは納得であり、生きるその都度の営みを「肯定」できることである。それは、いいことができた時だけを肯定するのではなく、自分の弱さや失敗、嫌な部分も含め肯定することである。



●『バファリンの半分は優しさでできています』



 そんなCMのキャッチフレーズがあったが、あなたのその知恵は一体何を達成するためのものだろうか? 誰かを笑顔にできることだろうか? それとも、笑うのはあなた(とあなたの関係者)だけで、あとは誰も笑えないようなことだろうか?

 いったん、表向きの知恵が崩壊をみると、その「知恵」はオートマティカルにより世界を本質に向けさせる方向、他者の魂の旅を加速させる役割を指向する。

 ただし、それが起きていない時点にあっては、自動運転でそうならないので、手動(マニュアル運転)で、わざわざ「あなた」という自我が意識的に気にしてあげる必要がある。



●私の今の選択は、言動は、気持ちは——

 優しさが含まれているだろうか?



 もちろん、ここで言う「優しさ」とは、見た目に分かりやすい「優しさ」と必ずしも一致しない。

 普通の感覚では「厳しさ」に見えたり、あなた個人には歓迎できない現象となって見えることもある。だから、見た目の現象に惑わされないで 「優しさ」を抽出できる知恵と力も必要なのだ。

 優しさの何たるかを深く知る知恵。そして、それを込めることのできる力。

 持って意味のある知恵と力とは、そういうものである。

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