雅歌 ~オカタいクリスチャン坊やの憩いのコーナー~
エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
旧約聖書 雅歌 2章7節
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聖書といえば、読んだことのない方なら「カタい書物」「キリストさんのこととか、とにかく真面目なことしか書いてないブ厚い本」というイメージしかないかもしれない。
実際に、退屈になりそうな「こうせーああせー」みたいな内容が多く、信者でもないならあくびがでる。また、そうじゃないならないで「神は素晴らしい。神を褒めたたえよ!」みたいな話だらけで、これまた信じている者でないと読んでいて萎える。
あとは、おどしですな。神の御心に背くようなことをすると、こんな大変なことになりますよ、という。
私の知り合いにいるクリスチャン二世は、今は大人だが学生時代のこんな打ち明け話をしてくれた。生まれた時から親がクリスチャンなせいで、子どもである彼は自分の意志とは関係なしに、教会に通うことが当たり前になっていた。
物心つく前から通っていれば、行くことが当たり前になる。ただ、色々知恵がついてきた頃、自分が日曜を割いてまで(友達と遊ぶのを我慢してまで)教会に行くことは「もしかして損してる?」と考えだした。
聖書の話も、子ども教会向けにやさしくされているといっても、あまり楽しい話ではない。それでも、優しい彼は親の願い通り、教会に通い続けた。
そんな彼もいつしか中学生になり、少々性に目覚めかけてきた頃——
退屈な牧師の説教を聞き流しながら、ある日曜日も礼拝の席に座っていた。
牧師の話よりはマシかと、彼は適当に聖書をパラパラ斜め読みした。
「!!」
偶然、あるページが彼の目を捉えた。
「乳房」という単語が目に入ったのだ。おお! 一体何の場面なんだ!?
それが、以下の部分。
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あなたの立ち姿はなつめやし、乳房はその実の房。
なつめやしの木に登り、甘い実の房をつかんでみたい
わたしの願いは、ぶどうの房のようなあなたの乳房、りんごの香りのようなあなたの息。
わたしは城壁、わたしの乳房は二つの塔。
あの人の目には、もう満足を与えるものと見えています。
【雅歌 7章8~10・8章10節】
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当時は、今みたいにネットにエロ画像が溢れていたり、未成年でもその気になれば簡単にエッチな映像なりが手に入らないような昔だった。
11PMを、皆が寝たあとの真っ暗な居間でこっそり見る感じ。(そらいつの時代や……)エロネタに乏しい彼は、ただそれだけでも興奮したらしい。
カタい話ばかりだと思っていた聖書に、こんな官能小説みたいな言葉があるんか~!
それでも、カタい信者たちは 「これはキリストと我々信者との関係を恋人を慕う気持ちになぞらえている」とか、格好つけたことを言っているが、こじつけもいいところである。
どう解釈しても、「アイツのおっぱい好きや! 揉みたいわ」という話ではないか! 最後の一文なんて、「彼はおっぱい星人で、私のが特にお気に入りなの♪」と言ってるようにしか読めない。
このエッチな言葉があるのは、旧約聖書の『雅歌』と呼ばれる書である。
一応、遡ればキリストの血統に当たるソロモン王の作とされているが、おそらく違うだろう。
それと分かる信仰的な話はなく、ほぼボルテージが上がった恋する者の気持ちが語られているだけ。私の思いは~のようだ、美しいあなたは~のようだと「ヨーダの連発」(スターウォーズか?)ばかり。
とにかく、恋人を何かに例えて絶賛する話ばかりである。
最後まで、聖書の中に組み込むことが議論された書だが、結局正典に収まってしまった。そのお蔭で、欲求不満のクリスチャン二世の興奮材料となったわけだ。
以後、彼は礼拝で退屈するとそこを読むことが習慣になったらしい……
今回したい話は、雅歌はエッチいということではない。断じてない。(笑)
冒頭に紹介した、雅歌に収録されているこの言葉について考えたいのである。
●誓ってください。愛がそれを望むまでは、愛を呼びさまさないと。
なかなかに深い言葉であろう?(時代劇に登場する姫様調に)
他はエロいが、所々ハッと気付きを促す言葉もあるから油断ならない。
私は、身近な話としてこの「愛」という言葉を「悟り(覚醒)」に置き換えて考えてみたいのだ。
●悟りがそれを望むまでは、悟りを呼びさまさないと。
私は、この姿勢って大事だと思うのである。
並の者は、皆悟りたい悟りたいとガツガツしている。
確かに熱心かもしれないが、ちょっとそれでは空回りしている。
そんな人たちに届けたいメッセージが、これである。
●一休さんじゃないが、「はぁ~い慌てない慌てない。ひと休みひと休み!」
もちろん、悟りそのものが意志を持つわけではないし、「悟り」と呼べる何かが存在するわけでもない。擬人的に表現していることはお断りしておくが、それでも大事なポイントを言っている。
悟りには、ふさわしい 「時」 がある。
それをあなたは知らない。自分の都合でしか考えないから。
だから、そのふさわしい「時」が来るのに任せるのである。それまでは、焦らないでやるべきことはやっておいて、そのあと「待つ」のである。
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