ヨナ書 ~こだわりのせいで神に従えなかった男~

 旧約聖書に「ヨナ書」というお話がある。

 ヨナという人物はユダヤ人で、聖書の「神」を信じる預言者である。

 その頃、異教徒の国アッシリアの首都ニネベは、大変悪がはびこったそうな。

 神はそれを見て、ヨナという人物を向かわせ、「この街は40日で滅びる」と伝えさせた。

 すると、ニネベの街の者は、王から始まって皆、ごめんなさい反省しますモードになった。つまり、ヨナの警告を素直に受け止めたのだ。

 老若男女、皆悔い改めて断食して、神の前にゆるしを乞うた。

「そうすれば、神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」と皆思ったのだ。



 で、神はそれをご覧になって災いを下すのを中止された。

 本来はよかったね、という話だが、これに納得いかなかったのはヨナである。

 ヨナは激しく怒った。なぜか。



 ①ユダヤには 「自分たちの信じている神こそ本物の唯一の神」という選民思想があった。



 他民族は、ウソの神を信じている。または、神でないものを神と信じ込んでいる。

 ヤーウエ(エホヴァ)の神のみが、唯一誠の神。

 その神はユダヤ民族を選び、窓口とされ、その言葉を預けられた。

 その自覚は民族の誇りとなる反面、他民族より自分たちは優れているという優越ともなった。

 平たく言えば、他民族を見下していたのだ。(戦力とか文化水準とかでなく、真の神に使えているかどうかが彼らにとって重要だった)

 だから。悪がはびこったニネベなど、ヨナの中では 「滅んでほしかった」。



 ②神の言葉がウソになってしまった。メンツが潰れた



 ユダヤ人にとって、神の言葉は絶対である。

 一字一句たりとも、間違いがあろうはずなどない。

 神は、「ニネベは滅びる」と言ったのだ。言ったからには、滅びるのだ。

 しかし、実際は「思い直された」ので、結局予言したことが起きなかった。

 本来、素直にニネベの人たちの改心を、悲劇の回避を喜んであげるべきなのだが、そうできない。そんなことどうでもいいのだ。たとえ彼らが大勢死んでも、それでも「神の言葉が成就する」ことの方が大事なのだ。

 人々の幸せは、大事だ。

 だが、その「なり方」が何でもいいわけじゃなかった。

 自分が伝えた神の言葉通りでなければ、ゆるせないのだ。



 思い直される神、というのは確かに慈悲深い。

 でも、一般人がアイドルや有名人に勝手なイメージを押しつけ「そうでないとキレる」みたいに、神は「一度吐いたことを撤回することなどない」というイメージを押しつけたのだ。

 神は絶対に間違わない = 一度こうと言ったことを、「やっぱりやめます」なんて言う神であるはずがないし、仮にそうなら我慢ならない。

 というか、ヨナが個人的にニネベ大嫌いなのだ。

 だから、建前上神がどうの御言葉の成就がどうの、と言うが、結局神を利用したかっただけ。悔い改めようが何だろうが、とにかく破滅してほしかったのである。

 神がゆるせても、ヨナは許せなかった。

 結局ヨナ、お前自身が神になってるじゃん。



 そこを、ヨナは無自覚だったわけではなく、ちゃんと理解はしていた。

 ヨナは、聖書の中で神にこう言っている。

 まるで、名探偵に犯人と言い当てられた真犯人の告白みたいだ。



●わたしには、こうなることが分かっていました。

 あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。



 つまりは、神は間違ってはおらず、おかしいのは自分であることが分かっている。

 頭では分かってはいても、気持ちがどうしようもない。

(それは結局分かってないのと同じ)

 どうしても、道理に感情が屈しないので、そのみじめさに「いっそのこと殺してくれ」と言ったのだ。

 こういう状態が、人間が生きてて一番辛い瞬間なのかもしれない。



 宗教家もスピリチュアル指導者も、自分が会得したところの(信じたところの)神を語り、道を説き、説教をする。ネットで語る。本も出す。

 彼らの目的は、「世界の平和、世の人々の幸せ」 であるはずだ。

 しかし、彼らは常にある種の過ちを犯す危険性と隣りあわせである。



●皆がただ幸せになればいい、わけではない。

 幸せになりさえすれば、なんでもいいということではない。

 その人物が信じる神、宗教、教義 (法則・真理) を信じた上でないと、イヤ。  それを介さないで、全然違う教えで幸せになるのが、我慢ならない。



 ちょうど、「恋」と「愛」の違いに似ている。

 どちらも、相手のことが好きで、相手の幸せを願っているのであるが——



●相手が幸せになる時、そばにいるのが自分でないといけないのが恋。

●たとえ相手のそばにいるのが自分じゃなくても、その相手本人さえ幸せなら本望なのが愛。



 宗教やスピリチュアルで陥ると怖いのは、皆の幸せを目指しているはずなのに、気付かないうちにそれとは矛盾する心理に絡め取られているケースである。

 まぁ、気持ちは分かる。自分の信じている宗教を皆が信じるようになり、世界がひとつになるのは宗教人にとっての夢であろう。自分の信じているスピリチュアルを、世界中の人が喜んで耳を傾け実践する世界になったら、「早いうちからその価値を見出していた大先輩な自分」はハナタカである。エゴが大喜びする美酒である。



 たとえば、その宗教やスピリチュアルとは対極にあたる、敵(かたき)みたいな意見や考え方を皆が採用しだし、それで皆が喜んでいて人生問題なさそうに生きていたら、極端な話「死ね」くらい考えかねない。不幸になれ、って思ってしまう。

 それは、自身の正しさにしがみつくのをやめられないから。自分の教えを離れた者たちが不幸になることで、自身のプライドが慰められるから。



 精神世界に携わる者の魔境は、これである。

 見えない世界を人に説くことでメシを食う者に課せられる、厳しい宿命である。

 あなたの主張は愛か、恋か。

 そこを問うてほしい。

 あなたの主張のとおりに世界が幸せになるのでないと困るか。それとも、たとえ自分に都合が悪い教えや主張であっても、採用している本人がいいならそれを許容し、共存できるか。

 真理とか、絶対的な正しさということにこだわる者ほど、そういう「この真理に従う気のない者は不幸になっても仕方がない(いや、むしろそうなれ)」にいつのまにかハマってしまいやすい。


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