イエス、ペテロの質問をバッサリ斬る ~あなたはあなたの道を行け~

 ペトロは彼(ヨハネ)を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。

「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

 それで、この弟子(ヨハネ)は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。

 しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。

 ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。



 ヨハネによる福音書 21章21~23節



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 十字架にかけられ死んだ後、イエスが『復活』なるものをして、再び弟子たちの前に現れた時の話である。イエスは、一番弟子のペトロという人物に、その行く末を暗示するような予言をする。

「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれるであろう——」

 言い伝えでは、ペトロはローマ帝国のキリスト教迫害により、逆さ十字架にかけられ殉教している。まぁ、それは置いておいて。

 ここで、ペトロは、やはり12弟子のひとりヨハネのことがなぜか気になった。

 そこで、イエスに尋ねた。

「先生、この人はどうなるんでしょうか」

 イエスはそれを受けて、ああ彼はねぇ……と親切に答えていない。

 ある種、喝を入れられる感じの言葉を返される。叱責されているととらえていただいてもいい。

「私が再びこの世に来る(再臨)時まで、彼(ヨハネ)がまだ生きていたとしても、それがあなたに何の関係があるのだ? あなたは、あなた自身の道(人生)だけを見つめてお行きなさい。」



 例にもれず、人の言葉を聞きたいように聞く人たちのせいで——

 ヨハネが生きている間に、イエスがまたやって来ると信じる人たちがいた。百歩譲って、バッチリヨハネの生きている間じゃなくても、「そう遠くない時」だと解釈した。

 だから、イエスの死後数百年は、キリスト教熱が最高にフィーバーした。

 再臨を熱望するエネルギーが、あの辛いローマ帝国迫害時代を乗り越えさせた。

 でも、実際は何事も起こらなかった。二千年経った今でも、である。

 私がいた教会もそうだが、現代のクリスチャン未だに「きっと来る」と再臨を待っている。



 ここで、イエスの本当に言いたかったことは何か。



「あなたが、宇宙の王である。創造主である。

 あなたの宇宙には、あなた以外存在しない。

 なぜなら、すべてはあなたの意識が生み出しているから。

 ゆえに、あなたはあなた自身の人生に気を配っていればそれで十分である。

 自分がすべてであることを忘れて、他人(外界)という幻想を恐れだした時——

 あなたは、自分が主人公としてのマイ・ライフを楽しみにくくなる。

 他人のことは、人生ゲーム上支障のない程度に配慮すればよい。

 他人以上に一番優しくするべきは、自分である。

 そのバランスを欠き、自分のことより他人のことにエネルギー配分が傾いた時——

 あなたは、病むことになる。



 自分のことと同等、いやそれ以上に気になるのが「他人」である。

 人はいちいち、比較することに慣れ過ぎてきた。

 また、他人の幸せを考えすぎる、という間違いも犯してきた。

 ひとりひとりは宇宙の王である。

 ということは、その人の幸せはその自身が決め、選び取ることである。外の状況に関係なく。

 なのに、身近な人が亡くなったり、亡くならないまでも「苦しい状況」でいる時、あなたは自分の人生を生きるよりも、その他者をどうしたらいいかばかり考える。

 自分の人生ではなく、外の事情に振り回される人生になっている。

 障がいをもつ方が身内にいる人。介護問題でしんどい思いをしている人。

 つい最近、『統合失調症』について、筆者の見解を聞かせてください、という質問があった。



 統合失調症、とはその昔『精神分裂』という名前で呼ばれていた。

 名前が誤解を与え、よろしくないということでこの名になった。

 これは、明確に定義できない。その症状の指す範囲も、広い。

 何せ言えるのは、この症状をもつ人が身近にいる場合、苦労するということだ。

 なぜ、苦労するのか?



●今の世の中の枠組みのせいである。

 人間が自らつくりあげた社会制度のせいである。



 いったい、だれが決めたんだか。

 地域で、近所同士であまり助け合わない。

 よその家はよその家。ウチはウチ。

 プライバシーという側面では気楽だが、困った時に助けてもらう候補として考えにくい。

(火事とか泥棒なら声をかけられるだろうが、親や病人の介護なんて手伝ってと言えないはず)

 働かないと、お金が入らない。

 お金が入らないと、生活ができない。

 すると、働かないで寝ている人、世話の大変な人を世話する余裕がない。

 余裕がないけど、かと言って頼める人がいない。

(親戚と言っても、冷たいこともある。福祉制度も、十分ではない)

 だから、無理をしてでも仕事と介護を両方こなすしかない。

 で、人間肉体には限界があり、神意識でない人間意識にも、我慢の限界がある。

 結果、つぶれる。

 ノイローゼになり、ネグレクトや虐待となる場合がある。

 ベクトルが内へ向かうと、自殺になるケースもある。



 今言ったこと全部、「宇宙では本来そうする義務などかけらもないこと」ばかり。

 全部、人間が勝手に決めた。

 バスケットボールのトラベリングと同じ。

 実際の生活で守る必要はないが、自分から進んでバスケする場合にのみ守る必要が出てくる。

 だから、皆趣味で苦しんでいる。たいがいの人は、物事の前提を疑わない。社会の枠組みの中でしか、物事を考えない。

 人は、言うかもしれない。「変えるったって、どうするのさ。現実問題、無理でしょ?」

 意識こそがすべてを生んでいると考えれば——

 実は、その認識こそがこの資本主義・成果主義社会・書類お役所社会の存続を支えている、と言える。



 この世界に『統合失調症』というものはない。

 その人は、「ただそのようであるだけ」 。

 そこに、良し悪しはない。優劣もない。

 エゴ(他の人間が快適に生きる上での都合)により、そういうラベルが貼られただけ。そういう名前を付けて分類した方が、その社会では便利なため。

 


 ここはよく、世間の人が考え違いをする部分なので、指摘しておく。



●障がい者福祉を頑張るほど、障がい者問題は増える。

 警察が犯罪撲滅を頑張るほど、犯罪が増える。

 仮面ライダーが怪人を倒せば倒すほど、世界平和から遠ざかる。

 とにかく、何かに「反対」すると、逆効果になる。

 そこには、『重要と供給』の理屈が関係している。



 APAホテルの戦略が、よい例だ。あまり美人ではない(?)あのアパ社長は、時々言うことやることで「炎上」することがあるが、それなのにAPAはつぶれるどころか利益を上げている。

 例え否定であったとしても、意識することでその対象に支配される。あんな人にはなりたくない、と思う時その「あんな人」が心にイメージされているので、結局刷り込みによる宣伝効果が上がっているのと同じなわけだ。ただひとつ気を付けなければならないのは、本当に客が来なくなるレベルでの悪事や過失ではない点を死守しなければならない。

 戦争反対! とかって何かに反対する運動をしている人に攻撃的な波動の人が多いのは、そのためである。戦争反対!って時にその人の心には「戦争」があるわけだ。(宇宙は否定語を理解しない)皮肉な話、戦争反対の意識は争いを(何らかの形で)生む。

 だから、障がい者のために、世の弱者のために、って人が善意で考える時——

「障がい者」がイメージ(意識)されている。

「弱者」がイメージされている。

 さっき挙げた例でもそうでしょう?

 警察は「犯罪者」を意識している。

 正義の味方は、倒すその「悪」を意識している。

 意識が、現実をつくる。

 よって、例え反対していても、意識にのぼるものを生み出し続ける。

 マザー・テレサが「反戦集会には行きません。平和の集会なら行きます」と言ったのはそのためだ。



 だから、統合失調症と言われた人がいるとして——

「統合失調症の人」と認識したら、どうなるかである。

 皮肉だが、あなたの望み通りの展開になる。

 あなたは、この作りあげられた社会に適合するというしなくてもいいことのために、骨身を削ることになる。なぜなら、統合失調症の方は、この現実社会に沿って生きようとする人たちにとって迷惑なことばかりするからだ。疲れ果てる。

 私たちの意識の持ちようによっては、視点の持ちようによっては、そういう人たちがただそうであるだけ、と受け止められる世界に出来る。

 大変そうに聞こえるが、意識の問題だけである。あまりにもこの社会が難攻不落の、変えるのが難しい世界だという認識をまず脱ごう。



 目の前のその人は、『統合失調症の人』じゃない。

 ちゃんと、名前があるでしょ?

 田中さんかもしれない。上田さんかもしれない。

 正味のその人として認識してあげるのが、いいですよ。症状じゃなく。

 障がい者、じゃない。ちゃんと名前があり、その人の世界がある。

 で、その世界は他人が可哀想に思うほどしょぼくも狭くもない。

 かえって、その世界のほうが豊穣かもしれない。

 犯罪者、ではなくその人にも名前がある。

 医者もそう。目の前にいるのは「患者」というよりも、誰々さんである。

 分類上の名前でその人を認識すれば、余計ドツボである。発達障害、というのもそう。余計、それを強化するのに加担していることになる。




 あと、もうひとつ言えることがあるなら——



●他人のことは、考えても仕方がない。

 そこには、限界がある。

 自分が幸せになること以上の、他人の問題を解決できる方法はない。



 冒頭でも触れたが、自分以外この宇宙にはいない。

 あなたは、あなたの内的世界しか知り得ないはずだ。

 他の人のことは、想像するしかない。

 で、得てしてその想像や推測は、外れていることが多い。

 それは、自分のレースを走れよ、という宇宙からのメッセージである。



 イエスの一番弟子のペトロが、やはり弟子仲間のヨハネのことを気にした時——

 なぜ、イエスは「そんなこと考えるな」と怒ったのか。

 罠だからである。

 自分の運命がエゴ的に気に入らない時、自然と人は外を見る。

 もっと幸せそうな人。人生うまくいっていそうな人。

 なぜ、私だけこんな苦労を……?

 なぜ、私の身近な人が、こんな病気に?(こんな障害に?)



●そんな考え、放っておけ。



 何も、相手を世話をするなとか病名を無視しろというのではない。

 ネグレクトで死なせて、自分の好きなことばかりしろ、と言いたいのではない。

 心の中で自立しろ、と言っているのである。

 変な話だが、あなたは心労を背負ってまで世話をしているその人物に、依存している。その人物に、王であるはずのあなたが「実権」を握られている。

 もちろん、相手の方の状態が改善されたり、社会の制度が良く変わったりすることのほうが嬉しいだろうが、一足飛びにそこじゃなくて、まずは……



●視点の変化



 そこから目指してほしい。

 統合失調症の(障がい者の)誰々、ではなく「~さん」 。

 そう認識することから始まって、次に相手も宇宙の王として 「信頼すること」 。

 世話を一生懸命しているから、愛があるわけじゃないよ。

 相手を「私が世話でもしないと、生きていけない人」と見下してることはない?

 もちろん、自覚してるわけないだろうから、無意識下で。

 現象としてはお世話をしている状態でも、そこのところの意識を変えるだけで、違ってきますよ。

 相手も神。外野が心配しないでも、その人自身の命の力がある。

 だから私は、ゲーム世界においてうまくやるために、世話をするという幻想(演劇)を生きているだけ。その認識があなたの「自立」につながり、ひいてはその他者をも「自立」させていく流れになる。

(もちろん、現象面ではなくもっと深い世界で)



 自分と比較して他者が気になる、というそのエネルギーは、面白くない。つまらない。ヨハネを気にしたペトロの意識波動も、ショボい。

 宇宙の王が、その実権があることを忘れた瞬間だからである。

 イエスはそこを鋭く見抜き、指摘したのだ。

 ペトロよ。他は他で、命なのだからなる通りになるさ。その流れを信じろ。

 だから、お前はお前の道をただまっすぐに——



●お行きなさい。(スカイハイの釈由美子・談)

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