見ないで信じる者は幸い ~翔んで埼玉のヒットは、何のおかげ?~

 イエスはトマスに言われた。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」  



【ヨハネによる福音書 20章29節】



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『パタリロ!』 などの漫画作品で有名な漫画家、魔夜峰央さんがニュース記事になっていた。久々で名前をお見かけしたので、興味を持って読んでみた。

 そこには、「どん底からの復活」というタイトルがあり、実際に魔夜さんがたどった人生行路が紹介されていた。「パタリロ!」がヒットしてその後、色々大変だったようなのである。



 パタリロこそ大々的にヒットし、アニメ化、映画化、ゲーム化、舞台化などそのブームは広がったが、その後パタリロに代わるヒット作も出ず、パタリロ関係以外の仕事がどんどん減っていったそうなのだ。

 それで2010年頃からは生活費にも困るようになった。

 宝石収集が趣味だったそうで (そりゃ収入維持できんで趣味がそれなら、アカンわな……)、生活のために泣く泣くそれも手放したそうだ。



 もう売るものもない。これからどうしたら……?

 そんなタイミングで、驚くべき奇跡が。

 30年以上も前に書いた作品、「翔んで埼玉」という作品が今になって再注目された。昨年復刊するや、55万部のヒットとなった。

 同様に、映画も大ヒット。

 本人は、その作品を書いたことすら忘れていたそうで。そこからまた色々な方面から仕事の依頼も来るようになったそうで。とりあえず、私も好きな漫画家さんが私生活上落ち着かれたことは、よかったと感じている。



 魔夜さんは、インタビューでスピリチュアルがかった感想を言っている。



 ●新しいものを得るには、得てきたものを捨てることも必要だった

 ●人にできるのは、全うに生きることだけ。神様なのか守護霊なのか分からないが、何かに導かれて今の復活に至ったように感じています



 まぁ、カミサマや守護霊の話は置いといて、考え方としてはその通りだ。

 私としても、異論はない。何やらの「お蔭様」というのは当たっている。

 正しいかどうかは別として、そのように発想すること、そして「感謝」をもつことは、この世界ゲームにおいては非常に有効に作用する。

 魔夜さんに関する記事は短かく、苦労途中でもインタビューで言ったような思いを持ち続けていたのか、それとも復活を果たせて一息つけた立場から振り返って今そう思えたのか、が分からない。もし前者なら、ゴメンンサイ。その時はこの記事は削除でもいい。 

 皆さんの勉強のために、失礼ながら後者だと仮定して、話をすすめる。

 それだと、こうも言えるのである。



●そりゃあなた、復活を果たせたから言えるんだよ。



 例えばである。

 仮に、魔夜さんがまだ生活が苦しいままの時なら、魔夜さんは取材されなかっただろうということ。彼について、どこのメディアも報じなかっただろうということ。

 だって、うまみがないからね。「かつての漫画家が苦境にあります。皆さん、一時はお世話になったのですから、もっと盛り上げていきましょう!」なんて、まず記事にしない。

 成功したから、再注目したのである。赤の他人の誰も、魔夜さん個人の命や幸せそのものに関心はない。

 要するに、「話題性」である。



 今、カネもなく何の成果も出せてない人が、上記の言葉をブログで訴えたり、自費出版で自分の信念を本にしたとしても、売れない。

 逆に、大きな成功をした人が書いたら、たとえ文面が同じでも売れる。

 結局、皆結果を見ているのである。人を見ているのである。

 成功した人も、その成功があるから「色々もっともらしいこと」が言えるのである。それがなかったら、世間に向かって「私の人生は導かれている」「すべては最善になっていく」などということは言えないケースが多いはずである。



 私は、何かの成功をつかんでからこういうことが言える人よりも、その苦労の道中でさえそのこと(おかげさまで生きている、ただまっとうに生きるだけ、そうすれば必ず納得の人生になる)を声高らかに言える人のほうがすごいと思っている。

 でもまぁ、仕方のないことだが、成功しないと誰もその言葉に耳を傾けないんだけども。



 今回取り上げたした聖書の言葉は、トマスという弟子とイエスとのやり取りである。イエスが処刑されて死んで、「これからどうするべ?」と弟子たちが集まって悩んでいたところへ、あのイエスが生前とまったく同じ体で現れた。

(これをキリスト教では「復活」と言う)

 皆喜んだが、そこにたまたまトマスという弟子が用事で席を外していた。

 で、彼が戻ってきた時、他の弟子たちから 「先生が生きて戻ってきた」と聞く。

 だが、彼は言う。「私は、この目でちゃんと見て、この手で触って納得してからでないと、先生が生き返ったなんて認めないぞ!」

 したらば数日後、今度はトマスがちゃんといる場でイエスが現れた。

「ほらトマス、私を見なさい。ここ、触ってみなさい。ホレホレ」

 さすがに納得せざるを得ないトマス、やっとイエスを「主よ」と呼んだ。

 その際のイエスの言葉がこれ。



『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』



 私は、「見てから信じる」のがダメだとは思わない。

 思わないが、皆が皆、成果を出した者だけの言葉をありがたがり、逆に一般人は「何も成果を出せていない自分」を自己肯定できなくなりやすい状況は、いいとは言えない。良くも悪くも、「結果がすべて」の風潮。

 それでも、やっぱり 「成功したから注目する」「そうでないなら見向きもされない」この世界の特徴は、ちょっと寂しい。

 もちろん、甘やかせとか大したことないものをほめろ、とかは言わない。

 それでも、一生懸命生きようとする命に、もう少しビジネスライクなだけでない「友(隣人)としての目」を、世界中が持てるとしたら?と考えてしまう。

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