一生懸命働く理由 ~今のうちに、ではなく今したいから~
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
わたしは、世にいる間、世の光である。
ヨハネによる福音書 9章4~5節
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人生における考え方のひとつに、こういうのがある。
一瞬先は分からない。未来はまったく分からない。
今当たり前にいつもどおり暮らしていて、一週間後も一年後も、5年後もきっと普通に生きていると勝手に思い込んでいるが、その保証はない。
誰にでも、死は訪れる。死ではなくとも、今まで当たり前だったことができなくなる時も来る。
だから、今という機会を大事にする。
感謝して生きる。
先の事なんてどうなるか分からないのだから——
今、何かができることに感謝し、存分に味わい楽しめと。
一見、よさそうに聞こえる考え方だが、私は好きではない。
なぜなら、この発想は不安と恐怖、そして損得勘定に起因しているからだ。
先の事が分からない、何が起こるか分かったものではないという点には同意する。
しかし、だからと言って「今のうちに。味わえるうちに楽しめ」というのは、豊穣の考え方ではない。欠乏の考えだ、ショボい考え方だ。
これではまるで、閉店売り尽くしセールがあと三日で終わるから、今のうちに買っとかなくちゃ損ですよ! とけしかけられて、おお、そりゃ逃せないと飛びつくようなもの。
いつか終わりが来るんだから、それまでにできるだけやっとけ、ってのは——
あまり、素敵な感情エネルギーではありませんね。
できることに、時間に限界があるというのは 「有限」「限定」 の考え方。
創造意識である我々本来の「永遠」「無限」「豊穣」の考えとは遠い。
冒頭に、イエス・キリストの言葉を紹介してある。
我々の感覚で読むと、やはりいつか来る終わりがあるために、したいことはできる時にしかできない。だから、今できることは悔いの残らないようにやっておくのだ、と読めてしまう。字的にもそう以外読めないことも問題だ。
でも、本来イエスの言いたいことはこうであろう。
●オレが働く理由は簡単だ。
今、やりたいからやる。
え、いつか働けなくなるなる時がくるから、今を一生懸命なのかって?
そんなこと考えたってしょうがないだろ。
今したい。そして今それができる。
それ以上、何を考えるってんだ?
あえて「いつか終わりが来る」って想定して、自分のケツひっぱたくことのメリットが、全然分かんねぇ。もしかして、オレって皆さんより頭悪い?(皮肉)
イエスは、決して終わりの時を見据えて、その時まで頑張ろうなんて考えちゃいない。時間が限られているのだから、その間できるだけやっておかなきゃ損だ、などとも考えていない。
イエスは、自身がたとえ有限の命をもった人間であっても、意識(考え方)においては自分を有限と考えようとしなかった。もっと自由・永遠・無限の視点から考えた。人はそれを身の丈に合っていない(身の程知らずな)考え方と言うかもしれない。でも、実はそこがミソなのだ。
●いくら自身が限界や寿命のある存在でも、考えるのは(意識の在り方は)何を考えたってタダだし自由なのだから、同じ事ならスケールでっかくおおらかに考えたほうがいい。
聖書のこの言葉は、イエス自身の言葉ではない。
有限の発想を抜けきれていない、気付きの浅い人間によって書かれたことが、イエスの言葉とされてしまっただけ。間の悪いことに、この考え方は世間一般の基準ではなかなか褒められる考え方だったので、ありがたがられてしまう。
この文章を読まれている方で、何らかの職業に就かれている方も多いだろう。
今まさに、働き盛りの方もいるだろう。
確かに、あなたは今のその仕事をずっと続けることはできない。
いつか、退職する日も来る。そうでなくても、人生に起こるハプニングによってはかなり早まりもする。リストラもあれば病気やケガもある。人生、何が起こって今まで当たり前だったことができなくなるか分からない。
でも、恐れるな。
あなたは、「仕事をできている自分」が一番大事と思っているからこそ、それができなくなる日を恐れる。その時が来るまでは情熱を燃やそう、と頑張る。
でも、それは欠乏の考え方。
宇宙には、起こることが起こる。そして、最善。
だとすれば、あなたが仕事できなくなる日がきたら——
それは、仕事に代わる「新たなことが最善となる日」に過ぎない。別の良きことに焦点が移っただけなので、それが何かを楽しみにするくらいでいい。
何か、目に見えて価値あることができている(仕事ができている)ことだけを一番とする考え方自体がショボい。
何で、一番価値ある行動が決まったひとつ(仕事)でなければならない?
イエスがいつか来る終わり、読めない未来を恐れて今をさも時間がもったいないというふうに頑張ろうしたほど、ボンクラだとは思わない。
彼ならきっと、未来のことも心配したはずはないし、生きている今のうちにできるだけ精一杯、なんて有限かつ貧困の発想はしなかったはず。もっと、ゆったり構えて、焦らなかったはず。
無限、豊穣の発想ができる者は、物事を有限に考えて焦ったり、力んだりしない。
筆者は、今当たり前というか日課のように小説投稿をしている。
もちろん、この当たり前がずっと続くとは思っていない。
いつか、書けなくなる日が(あるいは書かない日が)来るかもしれない。
だからと言って、まだ来ていもしないその時を心配して、じゃあ、書けている今に感謝し、全力を注ぐというのは感謝の仕方がおかしい。健全じゃない。
●終わりあること、有限なことを前提にする感謝っておかしい。
無限に、そして永遠に感謝するからこそ、感謝は輝く。
死ぬタイミングがあることを意識して、今生きれていることを感謝するってどうよ。いつか仕事できなくなる日がくることを意識して、今若い盛りにそれができることを感謝ってどうよ。
別に、単純に今に関する感謝だけでいいじゃん。
賢者テラが明日書けなくなろうが5年後書けなくなろうが、知ったこっちゃない。
すべてのことは起こるべくして起こる。タイミングは完全に決まっており、我々は操作できない。
だったら、人生に何が起ころうとも、どの瞬間であっても、その時その時で「最高の価値あること」というのはある。
それまでの仕事が奪われたら、またそれに代わるものが必ず登場する。だから、なにかひとつのことがいつか終わりを告げることを悲しく思わなくていい。
これができるのは今だけ、なんて気張って考えなくても、その時々でできる最高のことがあるんだから。それは刻々と変化もするんだから、もうちょっとゆったり構えてください。
だから私も、焦りません。書けるうちに精一杯書いておこう、なんてセコいことは考えません。(でもこれ、世の中では立派な考え方なんだよね~困ったことに)書きたい時に、書きたいから書くんです!
明日、いきなり私の中のインスピレーションが枯渇して、投稿が終わっても心残りはない。その時に筆者には、また新たな人生の展開が待っているのだ。
そう思うことにしている。むしろ、そちらのほうが喜ばしいことであるかもれないのだ。
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